今年もあんまりブログ更新せずで、新ネタも相も変わらず見つからず。
大学時代みたいに定期的に指導しないとネタも出てこないものだと実感した日々。
と言っても技術的な考察は感覚→解剖学→感覚の流れで一通りは考察し終えてしまったがせいで、残る部分はパーソナルな部分

理想を言うなら、入らない場合を自己解決でき、戦術によって必要な待ちや必要な技術、更には戦術事の理想の打法まで考えられるそんな記事を書いていきたいところではあるが、正直指導される側・読み手側が賢くないとできないのだろうとも思う

結局賢くやらないと勝てないのは、その人のいるレベル帯で見合う技術が足りない場合だし、練習不足で入らないとか、体力がないとか、そういった際に如何に知恵で勝つか、ジュニアでも明らかに格上でシステム的な卓球をする相手に如何にしてハメ勝つかでそういったシチュエーションが求められてる時点で練習もっと頑張りなよって話になってしまう

単発で勝ちを拾わなければいけない場面、相手も勝負にのめり込み技をかけやすい場面である団体戦であれば知恵勝負にはなるけれど、個人戦となるとやはり単純な練習量と実力に比例した結果が出てしまうもの

個人戦でも緊張してくれる相手であるなら何とかごまかし勝てたけど、なかなかそうでもないし。

どう練習して賢くなるかというのも、ほぼ時間が解決してくれてしまうのも本当のところなのだろうと思う。
医学生よりも医者になってからの方が明らかに賢い。
臨床の場で常にアセスメントが求められ、それに応じて最善手を導き、なおかつ次の治療に早く進められるように段取りを組むには必要なタスクがあまりに多い。
緊急手術を組むとなればそれこそタスクは尋常じゃないし、一つのプロジェクトを起こすようなもの。
そうでなくても一人を入院させるとなっただけでも必要なタスクは10以上だし、それを20分そこらでこなしながら他患の診療をするなんてこともザラにある。

学生の時あんなに賢くなかった後輩も、医者になって二年で一皮どころか身ぐるみ全部おいてきたようなシャープな思考になっていたり。
その状態で卓球を教えてみれば飲み込みも段違いなわけだ。練習全然していないにも関わらず再現性も出せる。

だからベースで賢いというのは指導される側としては必要だし、勉強や仕事でしか得られない賢さ、マルチタスクをこなすスキルも練習のなかで取り入れていかなければどこかでつまづいてしまう。
と言っても自発的に問題発見→解決のサイクルで回せる選手はそうではないのだろうけれど、どの指導者の指導法を見ていても自分の卓球の型にハメて、その型を持つもの同士で練習させるわけだからそれより強い型を持つチームにはやはり勝てないんだなと、各種動画見て思うところだ。

これは医者をやっていてもそうで、オーベン達は自分の型から外れることを激しく嫌う。なぜならその型の中でならばトラブルシューティングもできているからだ。外れたら最後、道筋が異なり何かが起きたら手を出しづらくなるから。
だがそうであってもその型が間違っていると思われることは往々にあるし、エビデンスのかけらもないエクスペリエンスの世界であることも否めない。
型はずれながらも最善手を選べば、その型の中で常に起きていたエラーを減らすこともできるのだが・・・そういったことはこっそりばれないようにすることがどうも答えらしい。

型を押し付けて、ハメて、「こうだから。他のことすんなよ」とすれば一定の効果は得られる。
そのままやっていけば、これまで指導したことと同様の効力があるし、これまで求めていたレベルの選手の質にも追いつくことが出来るだろう。
しかし、それでいてはこれまで通りの選手しか生まれない。指導者を超える人間は生まれない。指摘されない限りその指導の限界に気付くこともできず、レベルも規定されてしまう。
選手にしろ、指導者にしろ素直な人ほどその傾向があるのだろう。

しかして、持続的な開発を望むなら、本来は指導に対し評価的な態度が不可欠なわけで、それを批判する雰囲気であってはいけない。
そしてその評価的態度は単に優劣をつけるということではない。それがなぜそうなのかを突き詰めて理解した上で、より良いものはないのか指導者と議論できる環境が理想的だ。
残念ながら、私は現状医者をやる上でその環境にはないが、卓球をやる上ではそうした環境下で考察を進められた経緯がある。

結果として一般化するにこぎつけたわけだが、議論できる環境であるならば従来の指導法を感覚的であるとして、その指導を一般化した上で指導の要素を列挙・抽出して他と比較しながら吟味する過程を踏んでいる。

それだけにyoutubeの「話題の動画」なんかは見て、「ここまでは合ってるがここからは怪しい」とか、「こいつ解剖わかってないな」とか批評的に見た上で周囲にフィードバックするようにしているが、本来は指導者自身がこれは自分が正しいと思ったら一度振り返ってみなければいけないところなのだ。指導される側からのフィードバックもないとなれば、言っちゃあれだがそういうリテラシーの人間しかいないからその指導も伝わっているか怪しくなる。

私が教えていた際は一度教えた内容を一回再現性を以て説明させたりしたものだ。
この意味はその説明を聞いて自分の指導の欠点がないか、自分が考え漏らした要素はないかを探す目的もある。
シンプルに自分が教えた内容をそのままいうかだけではもったいない。

自分の教え方での伝わり方と、それによって生じうる認識の差異にこそまだ見ていない世界があるかもしれない。



エクスペリエンス信者はその先伸びることもないし、自分を超える人間を育てることはできない。
エビデンス信者は最終的には一般化・言語化に走るから、型を規定せず自分を超える人間を育てられる可能性がある。

だが理想は二つのいいとこどりをした方がいい。
エクスペリエンスから学び、そこにエビデンスで肉付けしていく。

いうなれば感覚から一般化していく作業。

そうして作り上げた指導法であっても受けて側の力次第で伝わり方は異なる。
だが伝わっていないということはもしかしたら・・・・・・・
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と最後にまとめたあたりで今年の総括記事とします。
指導全然してはいませんが、教えるアイディアは無限に出てきますね。
ほぼほぼそういう仕事しかしていないからなんでしょう。
今年もご愛読ありがとうございました。よいお年を