医者していて常々思う所だが、ロジカルな部分と雰囲気な部分が混在していることが多々ある

命を扱う現場において「なんとなくな雰囲気」があっていいのか?と疑問に思われるかもしれないが、残念ながらあってしまう

それが経験っていうふわっとしていて、意外と確かなものだからだ

特に考えもせずよくなったことがあるからと強い薬を使ったり、検査を省いたり、無駄に検査をしたり、弱い薬を多く被せたりしている

それでよくなればオールオッケー
悪くなれば何がわるかったかそこで検討する
一度に多くをかえるとよくないから少しずつ変えたりするのだが、元から何をどうしたか根拠がないと変える時に困る
だってなんでつかってるかわからないものが原因だった場合、それを変えるのも難しくなってしまうからだ

どの薬も一方向の効能だけあればいいものの、意外に双方向だったり、相互作用があったりするものだからこれもまた難しい

考察するにも考えるべきポイントが一つだけとは限らないのだ

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卓球の考察においても同じことが言えよう

ミスした原因をただ一つに絞ることが出来ればなんと簡単なことか

それこそミスした一瞬のみを切り取って、解剖学的にだの、姿勢だのと理由をつけるのはたやすい

だからそうならないようにと身体動作を調節しようとしよう
それでも全然治らない

じゃあよりスムーズに動けるようにしよう

こう固着すると、かえって変な癖がついて一向に治らないなんてこともあるのが面白いところ


じゃあなんでミスしていたの?


多くが意識であったり、待ちであったり、動作をする以前の考え方によることがある

このあたりが内科的治療に似ている

常に流動的な相手と戦わねばならないのだ

その一方で、相手は常に動かない、それを見てどうするかを考える、つまりはワンコース練習や多球練習、展開を縛りに縛った卓球なんかはまさしく外科的

一度立ち止まって考える猶予がある、というかそれまでの準備で決まる

こと卓球においては、この二点の要素が加わる為、ミスをした際にどちらからアプローチするか、あるいは両方から行くのかを考えねばならない

そして、自分を主観的客観的にみて、自分のミスの原因がどちらかを自分が決めねばならない

技術的な指導は指導者にできても、心理的な待ちや考え方に関して具体的によみきることは並みの指導者にはできないからだ

結局は自分次第、意識に関しては特に、だ

おおよそこの前提を知っているかどうかで、色んな指導法の見方も変わってくるかと思う

みなさんはどうだろうか。