あけましておめでとうございます。そしてお久しぶりです。
またも久しくラケットを握っておらず、加えてブログももう一つの方に勤しみ本業であるこちらをないがしろにしてしまっている昨今であります。

だいぶ読者さんも離れてしまっておいででしょう。

今回もまた解剖学的新作では無く、考え方考察系です。幾分卓球していないものですいません。

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医者をやってるといろんな人を見るもので、いろんな人にいろんなことを言われる。
自分と同じか、それ以上に物分かりがいい人の話であれば私はすんなり受け入れるし、たとえ受け入れられなかったとしてもちくちく質問すれば納得いくように答えてもらえる。
その中で根底の考え方が私が過不足なく理解できていれば大概は正しいと確信をもって言えてきた。
無論その中に私が理解し兼ねるため、正しいかわからないということもある。
それは大きく二つに分けられることに最近気が付いた。
(1)私の理解力が低いために理解できないもの
(2)相手の理解力が低いために理解できないもの
の二つだ。
実際のところ(1)はさほど問題ではない。単に私の勉強不足なのだ。その場で要点を質問しつくし、アウトラインさえつかむことができればあとは自宅でこそ勉すればいいだけの話。それから再度質問を繰り返せば、多くは理解できるものとなる。
問題となるのは(2)だ。
これが一番厄介だ。大概は上から「自分がものを知っています」風にくる。となれば確実に相手の中で私は下に見られ、何を言うと「下の人間に何か言われている」ぐらいでまともに取り合おうとしない。
実は私はこの類が一番苦手なのだ。まともな会話にならないし、議論のしようもないからだ。そういう相手を見たら私は態度を改めよいしょする側に回らざるを得ない。
しかし、その中でも私の好奇心は衰えることはないのが不思議なところであって、「自分がものを知っています」風な人間が、本当に自信家であるとすると私は「本当にものを知っているのではないか?」と徐々に不安になってくる。
明らかに自分より上の知識人となると、使う言葉の質も人当りもそれらしくなってくるから体感的に目上だとわかる。だが、言葉の質も下品だし、取る態度も二流にも関わらず「知っています」風となると懐疑的になってくるのだ。
大概そういう人間と相対したとき、私は値踏みを始める。ふさわしいだけの人間性を持っているのかどうかをいろんな方面からつついて見るのだ。(と言っても、この試験的態度で接した際、本物であった試しがないのだが…)
そこで場当たり的な、雰囲気の良い言葉しか言えず、現在進行形で相手をしている私の人物像を見誤る人間にはいくらか共通項があることに私は気づいた。
それは「経験」をやたらと背景に据えてくることだ。
この「経験」を盾にする人間は、二つに大別される。
(1)経験を一般化できる
(2)経験を経験としてか認識できない
私が相対して厄介だと思う相手は、(2)だ。
経験は重要だが、それを理解し教訓として一般化出来ていなければおおよそ継続した成長はない。まだ一般化できるほどの経験がないのであればしょうがないのだが、それまで私に対しただ「経験の質」ではなく、「経験の量」を盾にしてマウントを取ってきた相手であれば、如何に滑稽かは想像に難くないだろう。
おおよそそこでピエロにされていると自覚する者は、今後の成長の見込みは大きくある。少なからず卓球においてはかつてそうであった。ただ、ここで気付けない者は一生その程度なのだろう。

こと卓球においては自分が正しいと思う事柄があった際、それなりに言葉を尽くして説明して納得されることが多いと実感している。
卓球で培った考察力を武器に、卓球から離れたところで議論をしようとすると途端に「経験」が無いがゆえに話にならなくなるのだ。



私は常々、「経験」が優遇される社会にいながら、「知識」の勉強の機会を熱望し続けている。
ここで言う「知識」は単なる学術的なものだけではない。「経験」の一般化されたデータや、複数の「経験」に基づく一般論なども含む。
昨今医者をしていて思うのは、「経験」することが何より大事とされる風潮は果たして正解なのかということだ。とりあえず「経験」するよりも、頭でっかちでいいからしっかりとストラテジーを組んで事前準備をしっかりとした上で、失敗時のピットフォールも全て頭に入れた上で「やってみないとわからない」にしなければただの暴挙なのではないか。
無論常に準備できる業種でないのは理解できるが、あまりに昭和的で非効率なやり方が今でもまかり通るのは本来は一考しなければならない。
「ふつうは寝る間を惜しんで準備をするんだ」と、過去の美談を語るぐらいなら、如何に効率的に時間を作れるかを語ったほうが合理的なのだから。


さて、卓球に話を戻そう。
過去の経験に基づく「美談」は、あくまで「美談」でしかない。そこを考察し、より一般化しなければならない。
「寝る間を惜しんで~」などという美談を語るなら、「眠くて翌日に支障が出てしまうから本来は避けたほうがいい。しかし、日中の業務が多すぎて、時間はそこしかなかった。夜の方が機材が使いやすくて練習できたし、協力者が何人かいた」ぐらいの話をしてくれなければ、「なんでそんなに夜やったのだろう。それなら朝やればいいじゃん。効率悪い」ぐらいのツッコミが飛んでくる。
卓球における経験も、より具体的かつ一般化していかなければあまり意味がない。

直近の試合で私が負けた経験
「ずっとブロックさせられて、疲れて負けた。」
これを具体化すれば
「相手は序盤のラリー以外はオールフォアで8割程度の強打を全面に打っていた。コースは適度に散っていたがボールに追いつくことが出来たため、私はすべてブロックするほかなかった。ラリーが10球を超えたぐらいのところで疲れてきて私がブロックをオーバーミスする展開が繰り返された。」
これを一般化かつ教訓とすれば、
「ラリーでミスなく左右に打ってくる相手は、ブロックで回そうにもこちらが先に不利になる。前陣で張っていれば疲れるのも当たり前。相手が打ち出したところで先にフォアに振って、中陣で引き合いに持ち込むか、ストレートにカウンターを狙いに行く展開をすべきだった。」
ここで自分と照らし合わせて、
「練習不足でつなぎに行く意識で粘ることしか頭になかった。それに前に張り付いてからは、よっぽど打たれるのが分かってないと下がっていない。先にカウンターを狙いに行くのもコースが分かり切っていなければこれまでしていなかった。やれば入るんだから、先に狙いにいく意識が欠如していた。」


さて、ここまで自らの経験を考察してきたが、ここまで練り上げられればもう「知識」として定着し始めている。自分の卓球の世界での常識として理解しているからだ。

これを他の場面でも試し、そこで得られる経験から一般化しさらなる知識獲得に動いたり、またいろんな動画を見て考察して疑似体験から得られる知識をえていく。

以上の単なる経験として終わらせずに、より深い理解へとつなげていくことが出来ればそれは成長の機会となりうると考える。


PS
Twitterを見ていると弱い人の考察は、弱い人から見えた像そのままに強い人同士の試合も陳腐にしていまうし、言葉足らずな考察は言葉足らずなままに終わってしまう一方で、強い人や言葉を知ってる人の考察はやけに含蓄深く仕上がっている印象を受ける。

当ブログも「ああ、言葉知らない人間が書いているな」とか、「なんだ、このレベルか弱い弱い」と思われることだろう。
故に他のジャンルから、自分の卓球のレベルよりも高度なものを引っ張ってくることで底上げを図っていきたい。
こう書くと、安易に他のジャンルから引っ張ってくるのは意味をなさないことが多いと示唆してしまうのだろうが…