最近twitter効果もあるのでしょうか、読者さん更に増えました、みなさんありがとうございます。
昨今では、この前出た大会でお会いした方からSNSでリプライ頂き読者さんだったと。

こうも読者層広がると嬉しい限りですが、なかなか過激なことは書きづらくなって来た感じはありますね 苦笑
今回はある程度批評記事ではありますが、やんわり全般的に書いてみます。

本記事は継続読者さんであればいつも言っていることだなぁと思われるかもしれませんし、嘗ても書いた気がしますが、改めてまとめます。



肩甲骨と肩関節について、最近フラン氏がまとめてくれていますが、これを見て「別に従来の肩甲骨の使い方の教え方で上手くなっている人が大半なんだし、いいんじゃない?」「そんな厳密にしたって誰も気にしないし、意味ないんじゃない?」「頭が固いんじゃない?」と思われる方が多いのではないでしょうか。

多分、当ブログ、フラン氏ブログを好き好んで読んでいる方々はそう思わないでしょう。
実際に私達が「厳密に言えば間違っている」「齟齬が生じる」とする教え方をしている方々がそう思うことでしょう。

ですが、私に言わせれば、そうした方々ほど頭が固い。
言い換えれば、自分たちが分かった気でいたことが実は全く分かっていなかったことで、それを知ろうにも理解できる頭が足りなくてもどかしい、とした心象なのではないでしょうか。

勉強ってすればするほど泥沼にはまっていくものですからね。
大学入試でもセンター数学満点、河合模試偏差値70で満足できたから私はそれ以上の勉強を止めましたが、上には上がいて、東大本試で満点を取れるほどに極めている者もいるものです。

しかし、センター程度の数学を教えるには別にそのレベルの知識はいりません。満点を取るのはそこまで難しいことではないですから。
問題なのは、満点を取れない人間が満点の取り方を教えること。
時間内に全て解ききれないのに、時間内に解き切るペース配分を教えていたりなんてしたらちゃんちゃらおかしいですよね。

卓球に話を戻せば、打法を1つ教えるならば、その打法の用い方と実際の使われ方まで、メリットデメリット込みで教えることが出来ねば「教えることが出来る」とは言えないのです。
何か一つを意識して、何か一つを習得するということはすなはち、相応の対価としての縛りが発生することを意味します

何かの運動をするということは、「止まっている状態」でなくなると言うこと
何かを意識するということは、「意識していない状態」でなくなると言うこと

何かをすることで、何もしない状態では無くなるというのは、何かしらの自分に縛りをかけているということですよね。

この時、どんな縛りが自分にかけられているかを理解する必要があります。
つまり、何が出来るようになる為に、何が出来なくなっているのか、ないしは何がし辛くなっているのかを理解するということですね。

これを時間を取って常にまったり考えることが出来るならば別に問題はないでしょう。
勉強なんかで字が見えづらいから濃く書こうとした時に、間違ったら消しづらくなるデメリットがあるからゆっくり書けばいいし、力が入って鉛筆の芯が折れそうになるならばより硬い芯を使えばいい。

しかし、卓球はスピーディーかつ相手も動いてくるゲーム性。
予め答えを用意しておかなければ、瞬間瞬間で思考が働くわけもありません。
それも、予め用意してきた打法を用いていい条件、打法を用いた結果が常に荒れてしまってはお話になりませんよね
自分の持つ技術の効能・効果、使い方くらいは、予め知っているのが当たり前ですし、それが試合中に変わるなんてのは自信を以ってその技術を使うことへの妨げになります。

となれば、そうした「技術の基本性能が荒れる」可能性が生じるのはどういった状況においてか、ということを考察しなければなりません。

考え方は様々あるかと思いますが、その技術そのものが相手依存である場合、環境依存である場合は荒れることはありえるでしょう。
ですがこれはボール、環境への認知能力が高まれば改善可能です。
より根本的な部分で荒れうる条件は、技術そのものへの認識が間違っている場合です。
この例として挙げられるのが、私が散々考察してきた、肩関節と肩甲骨の関係性、3Hitを適用しない場合です。

といっても蓄積された経験から、感覚的に、直感的に理解できる方ならば技術そのものへの認識が漠然としていても成立しうるでしょう。それがプロの生きる世界観かと思います。

ですが、ろくに練習も出来ない一般プレイヤーである私なんかであればそれではだめなのです。
経験とか直感とかが使える程に頻度高く卓球ができませんから。試合中でさえフィードバックできるような技術への認識と使用条件を整えておかなければなりません。

その方が、練習しなくても安定して入るから

私らなんかでそうならば、練習できている人ならばなおさらそうでしょう。
私に言わせれば練習時間を多く確保できている人ほど、上手くなるチャンスを見逃しているように思えます。
練習すればするほどボールは自然と安定して入るわけですから、入るボールに対して深く考察することはありません。
入るならば、入る感覚のまま、と考えてしまうのが卓球人の性です。感覚という単語は心地いいですからね。
そして、その入る感覚では取れないボールに直面した時、レベル差に愕然とし、「感覚が違う」なんてどこかそれっぽいことを言って格付けをしてしまうんです。
・・・もしかしたら、その人はレベルの高いボールを安定して入れられる条件と、それに伴う縛りを理解しているだけなのかもしれないのに。

要は技術それぞれに付きまとうはずの条件(入るための条件、入らないための条件)と、その条件に伴う縛り(必ず入ってしまう動作、入れなければいけない動作、それによるやり辛い動作など)を常に考えることが出来るかどうかが、自力で上達する為には必要と考えるわけです。

最小の打球レベルをどれだけ理解できているか、それを表現するための動作をする中でどんな縛りが生まれるか、一連の打法の中ではどういった条件が生じるかなどなど


1つが決まれば、後続して様々な条件が付与されて行きます。

フリック、フォア打ちの段階でその人に最適なフットワークの条件さえ規定されてしまうとも言えるでしょう。

安易なアドバイスで余分な動作一つが入ってしまえば、その余分な動作は他全ての技術にまで波及して悪影響を及ぼす可能性さえあります。

この意味でも、新たな動作、新たな打法を習得する際は、その性質を常に考えていく必要があります。

肩甲骨と肩関節に関して言及する最大の理由はまさにこのためで、肩甲骨意識では肩関節動作に至るまでのステップが余計にある為に、無駄な運動、無駄な力が入る可能性があり、それによって他の技術に悪影響を及ぼす可能性があります。

私としてはわざわざそんな危ない橋を渡らなくとも肩関節を使えばいいと思いますし、肩関節を使うならば、3Hitとのシナジーを用いてより安定して使える条件を理解された方がいいと思います。

もしくは、肩甲骨を強く意識するならば、最小の打球から最大の打球までの打法のメリットデメリットを理解してから使ったほうがいいでしょう。

そうでなければ謎ミスを繰り返し、更に余分な力が入り、フラン氏が言うようにけがをする可能性も捨て切れません。

といっても世に出ている肩甲骨打法の解説者は皆、細かいところまで独特の教え方で指導しているでしょうから問題になることはないでしょう。
ですから、せめて肩甲骨を強く意識するなら、最初から最後まで徹底的にやることを推奨します
それを推す指導者と徹底的に議論し、上達する為に活用されることがベストでしょう。

そうでなければ、、、私は全く推せません。


本記事のまとめとして、打法があれば必ずそれに伴う細かい設定があるということです。

覚えたからいいボールが出る、だけどデメリットは無い、なんて虫のいい話は無いですから。
ただ推されるものはデメリットが少なかったり、そうしたデメリットが生じないような対策がなされているものばかりでしょう。
ですが、そうした細かい話は世に出てくることは少ないことかと思います。
日頃から選手一人一人が考察を続けて、何でミスをしたのか、何で上手くいったのかをフィードバックしていかなければいけません。

じゃあその考え方は?

それを教えてくれる指導者なんてそれこそ超少数派。

大丈夫です、私とフラン氏が気持ち悪い程に考察している記事があるかと思います。
あんな感じでやれば、わからないことがどんどん出てきて、どんどんわかることに変わっていくかと思います。
・・・実際できるかは知りませんけどね

卓球は考えると面白いんですよ。
以上、啓蒙記事でした。