センスに関係するXia氏の記事



5年くらい前に私も同様に考えていた
自分にとある感覚があって、その感覚を安定かつ増強させる為にどう振るか考える
とした順序。

卓球というかスポーツ全般でも同様の考え方の人が多いことかと思う。
そして、こうした考え方の人は口をそろえてこういうのだ。
「フォームやスイングを気にし過ぎてはだめだ。形から入るな。感覚を覚えろ」
と。

無論それはごもっともなことだと思う。それ故に誰もが言いたくなるが、流石に自分の発言には責任を持たなければいけない。
「あなたの言うフォームとは何ですか」
「あなたの言うスイングとは何ですか」
「あなたの言う感覚とは何ですか。」

医学生なら誰しもこういった揚げ足とりかと思われるような質問を教員にバンバン投げかけられぶざけるな、と思ったことはあるだろう。
だがそれはただウザイ質問なだけではない。それらに答え続けることで思考力は少なからず磨かれてくる。

私が彼らが出すであろう答えとして、感覚とは身体動作を通じて得られる感覚とそれに伴う結果の認識を意味し、フォームやスイングは型、複合的な運動を意味するが挙げられると考える。

それ故に感覚が全てだ、とするのだろうが、ここに大きな間違いが潜むと考える。

フォームやスイングは本来感覚より上位に位置すべきものだからだ。

そもそも感覚が最初だが、その感覚を得る為に人は何をしなければならないか。ここの理解が著しく乏しい。

目の前にボールがあり、打球して感覚を得るまでの一連の流れを書いていくと、

①ボールを見る
②ボールの情報を認識する。
③どういった運動を行うのか考え、身体に命令する。
④身体が動く
⑤ボールとラケットが衝突し、打球際に感覚を得る。
⑥打球されたボールの軌道を見て、その結果を認識する。
⑦認識した情報と打球時の感覚を比較して、自分の感覚によって得られる結果のイメージをすり合せる。

多くの感覚信者は、感触としての感覚と、位置覚としての感覚の二通りの意味合いを持たせることが多いから、⑤が感触、④が位置覚として挙げられる。

一般的に打球感覚は身体動作の結果として感触が来る
ここを卓球界では感覚が先にあって、その感覚が生まれるような運動が勝手に出来る、と何故か逆に見ている。

打球感覚を主とした考え方の場合、⑤~⑦に意識が向き、感覚を得てから運動を考えるとした逆の機序を追うことになる。
本来感覚は運動を工夫することで能動的に変えることができるもの。だが、感覚→運動の機序だと仮定してしまうと、最初に感覚があるのにもかかわらず、感覚がギフトされたもの、受動的なものになってしまう。

理想を言うなれば①~④から感覚を「想像」し、実際に⑤~⑦で「創造」して認識すべきもの。


ちょっと眉唾な考察になってしまったが、「感覚」の概念を考え直す為の材料はほぼここで説明できたかと思う。

感覚が如何にあやふやか、感覚に固執し続けることで運動が不安定になる可能性がある理由はご理解いただけたことかと思う。
感覚が悪いのではない。感覚への理解が「感覚が運動に先行する」のか、「運動が感覚に先行するのか」どちらなのかが問題なのだ。

ここまで理解した上で、最小の運動を最小の感覚として覚え、「運動の再現性を保つ為に感覚の再現性を活用する」というのは有用かと考える。