愛知遠征初日、ローターさんは言った。

「やっぱり待つのは難しい。。どうしても打点を前で打って、前に振って打ちミスしてしまう」

3Hitをいくら理解されていても、自分の体を自分で適切に動かせなければ意味が無い。
この時の「体を適切に動かす」とはいったいどういう意味だろう。
様々な身体操作や筋トレ等の場合、体を適切に動かすと言えば、より目的である運動において力が出るような方法を意図しているケースが多い。
だが3Hitを満たしながら前に振らないことを目的とする場合、力が出るような運動の工夫をするというよりかは、目的外の運動が出ないように体を制御することが求められる。
この意味で私は「体を適切に動かす」と表現した。

力を増幅させる「+」や「×」の発想では無く、むしろ「-」の考え方で運動の最も欲しい部分を理解する。
多くの指導法においては力を増やす方向に重きを置きすぎて余分な運動が入ってしまう可能性が高い、というのは常々当ブログで言っていることだ。
余計な運動が入らないようにするためには必要最小限な具体的な運動を意識すべきで、感覚的指導法や複数の運動を重複するような指導法はノイズになりうる。
当ブログではなるたけ最小限の運動を意識できるよう考察してはいるが、より考察を進めていけば現段階での最小の運動がノイズであったとわかることもあるだろう。
となればノイズが少なければ少ないほど良いのではないか、という発想に至るのは自然で、ではそのノイズはどういった意味合いを持つのか、と考えたくもなる。

「余分な運動(=ノイズ)がそのまま上達の上限値を決めてしまうのではないか」


これがフラン氏(ローターさんもいたが、あまりに医学的な議論の為入れなそうでした。。ごめんね)との議論の始まりだった。

おおむねそれはそうだろう、とお互いに見解を述べると共に、では「意図的に必要な運動のみを出来るような神経伝達の獲得方法、あるいは新たに神経が通うようなことはあるのか」をテーマとして議論した。



バルサミコ「教科書に書いてないからよくわかんないんだけど、神経支配が同一部位(橈骨神経支配の領域や、正中神経支配の領域等、同じ神経支配の領域)はどうも勝手に動いてしまう気がする。意図しなくても。まあ確かに同じ神経支配領域ならそうなのかもしれないが、どう思う?」 


フラン「そうだろうが、俺は同じ神経支配領域でもそれぞれ操作できると思うね。例えば足の小指だけ動かすことってできる?」


バルサミコ「できないわ。」


フラン「ところが俺はできるんだよ。最初は出来なかったが、足の小指に意識を集めて動かす感覚を覚えた。」

バルサミコ「ということは、意識さえ出来れば、同じ神経支配領域であっても随意的に動かすことができるってことか。」

フラン「そうできるはず。」
(と教科書で見たこと無いのであくまで経験を元に議論している為、信憑性の低い話ではあるが、、、)



この「筋や部位を意識する」っていうのは、「脳の中で足への神経を通わせるようなシナプスを新たに作る」というカッコいい表現というよりかは、あらかじめ存在する神経を認識し活用するといったニュアンスの方が強いだろう。


今回議論しているスポーツで動かしたい筋においては神経や血管が通っていない筋は存在しないわけだから、その神経を使う、つまりは予めあるものなのだから「意識する」ことが出来ればその筋は使えるようになるはず。
ただ実際は動かそうと思うことなく体は動くもの。
例えば歩く時「左足を動かして、右足を固定して、右手を振って、、、」などと言う風に事細かに意識していることなどない。
もっと大ざっぱに、歩くといった運動を「感覚的に」行っているはずだ。

いくら神経が通っていて、無意識な運動をする際に神経が使われているとしても、その無意識な運動が感覚的あるいは潜在的にできているならばある種反射に近いようなものともいえよう。
原始反射や錘体路反射のような意識とは関係のないものに近い。

人が運動する時、筋の存在は知っていてもその筋の名称、働きまでは知らない。
何ともなしの感覚的なものなのだ。

結局は人の運動は感覚的なものだから、意識することができなければ本当に随意的とは言えないのかもしれない。
故に感覚をより具体化する為には、明確な意識を持つことが重要であり、その運動で動いている筋の存在を理解し、その筋の神経を意識させることが必要となってくる。
その為の運動、その為の筋トレならば有意義だろう。その筋のオンオフを意識できればその筋を随意的に動かせると同義であると考える。
運動において無意識に使っている筋を意識し、その際使っていない筋も意識することが出来れば意識的に使わないor使うことが可能となる為より運動に広がりが生まれるだろう。




上述のように「神経を意識すること」は、筋単位で動かすことができる可能性が誰にでも秘められているかもしれないことを意味する。


例えば運動神経がいい人、運動神経が悪い人って表現を使うけど、この運動神経って何を指すだろうか。

生理学の講義を受けたことがある人なら、「そもそも運動神経はいいもわるいも、悪かったら病気なんだから、運動が上手い下手で使うべき用語で無い」とバカにして笑う教授を一度は見たことがあるだろうが、先の会話を聞いたらどうだろう。

運動神経の調節(筋収縮を任意にON/OFFする能力という意味で)が上手い人、下手な人というニュアンスならば運動神経いいっていう表現も割とあり、と思わないだろうか。



私達は筋を意識した運動を普段するわけではないし、同じ運動をする機能を持つ筋が複数存在するならば、それらを相互作用させて仕事を楽にしようと思う。
だが、ことスポーツで求められる運動は楽にするためのものではない。
再現性がある、ある一定の動きが求められる。

それ故に、筋肉の運動にGOもSTOPも、両方をかけるスキルが求められてくる。
言い方を変えれば必要な時に必要な筋が働くように、必要で無い筋が働かないように、筋が言うことを聞いてくれるよう「神経を通す」必要がある。
神経を通す為に、意識してその部位を動かす必要がある。
フラン氏の説明がこれ以上なくわかりやすいところだろう。さっきも同じことを書いたが、筋トレは重要でフラン氏が言うことに近いか。
筋トレと言えば筋肥大させ、見た目をよくする為に行いがちなものだが、スポーツ選手のそれは運動に関わる筋の性能を高める為に行う。
性能というのも、収縮力が高まりより強大な力を求めたり、よりその筋がいうことをきくようにするというニュアンスを含む。


結局何度も同じことを、多少視点を変えて説明してきたが、一番言いたいのは
運動において人は筋を運動に必要な筋、必要でない筋の双方を意識して用いることは出来ていない。
それ故に不必要な筋の運動を入れて、過度に力が入り変なミスをしてしまう
円滑な運動をし、効率化を図るなら本当に必要な筋をまず見つけ、その筋の運動を増す筋とそうでない筋を意識することが必要で、その意識を通じて神経を通わせることがよりよい運動をすることに繋がるだろう。

なかなか眉唾な話かもしれないが、この発想が無いとより眉唾な指導法で変な運動を入れられ、自分の上限値を自分で決めてしまう可能性が非常に高い。

是非ともいる筋、いらない筋を解剖学的に理解されるのが望ましいが、それが難しい場合、硬くなっている筋が自分の運動をよくする方に働くのが悪くする方に働くのか実験的に考察してみて欲しい。
そうしていらない筋をあぶり出し、そこを使わないように意識すればノイズが消え去り、その分強くなる余裕が生まれるはずだ。