―――情報が溢れ返っている現代において、情報を識別する能力、情報リテラシーが求められるようになったものの、情報量に相応のそれを持っている人間は果たしてどれだけいるのだろうか。―――
音楽プレイヤーと言えばCD、MDプレイヤーなどが主流だったが、気付けばmp3に置き換わり、かつては種々のファイル作成においてパソコンが主流であったがこれも気付けば若い世代にとってはスマホ、タブレット等々便利な電子機器に置き換わった。
随分に便利となったツールが身近になっていくにつれ、私達はそうしたツールがどうやってできたかを考えなくなった。
その分情報処理がもとめられ、情報の真偽やソースを丹念に調べていた時代もいつしか過ぎ去り、情報が飽和しきった今ではその情報が正しいかどうか見つめることさえやめてしまっている。
しかして、物が溢れ返ったらそれを振り返るタームが必ず来る。
卓球に関する動画や情報が飽和しきった今こそ、その情報が正しいかどうか見つめるべき時がきたのではないだろうか。
というのも、現代の情報の発信者は「自分は自分、相手は相手、それぞれに個性があっていいじゃない」と尊重する体を装うことで互いのアイデンティティーを守りつつ、干渉しないようにバランスを取り合っている。いわば無関心を装った他人の目を気にする、まさに現代っ子と言わんがばかりの姿勢だろう。
私の身近なところで言えば、「個性の塊、アスペの巣窟」だなんて言われる医学部でもそうした傾向が顕著で、そりゃ勿論キャラが強くて個性的な人が多いのだけれど、他人に無関心な割に、他人の目を気にしすぎている人がおおくを占める。変わり者は一転して臆病なだけなのだ。
他者との関係性において、他者の情報を適切に収集・処理することができないから、結果的に他人の個の一端でも見えてしまったら、その瞬間に「個性だ、触れないようにしよう」とし、結局「皆ちがって皆いい!」からいいのだ、と自己肯定をしてしまう。
多少飛躍して言えば、他者との関係において、個性に触れないという行為そのものは、情報社会において情報処理をする擬似体験する機会を失っているとさえ思う。個性に触れず、ただ受容することを覚えてしまっていては、いかなる情報を目の前にしても個性を見出せば怖気づく。他人行儀な現代人がわんさかいる雰囲気も相まってか、密な情報に接することを怖いと思う、「情報弱者」も相当数いるだろう。そうした情報弱者を助長すると言う意味では「皆ちがって皆いい」信仰は非教育的で最悪に近い。
本来は「なにかちがう」ならば、どこがどう違うのかを深くまで見ようとしなければならない。他人の価値観や考え方との相違に触れ、自らの考える力も養う機会を常に持ち続けねばならない。
私の考える「皆ちがって皆いい」とは個を内面的にも外面的にも見て理解することで、その存在を社会的あるいは個人的に受容することである。
理解が無ければそれは無関心に処理することと何ら変わりがない。この意味では一般に用いられる「皆ちがって皆いい」とは、個人・情報に対する差別の意も含むように感じる。情報社会にいながら、閉鎖的感覚を覚えるのはこのせいだろう。
そして改めて念押ししておきたいのは、今の雰囲気を作ってしまったのは、現代人が持つ情報リテラシーが未熟であるためではないだろうか。

(参考文献:ラブライブ!2期6話、ラブライブサンシャインシリーズ)
ここまで前置きで、卓球に話を移す。
今卓球の技術動画とかスクールだとかブログだとか様々出て来たけれど、なんというかどれも似たり寄ったり、そう感じたことはないだろうか。
どうやらお互いがお互いを干渉しないように、結局大事なことは皆一緒、それまでのアプローチが様々あるだけ、っていう「皆ちがって皆いい」の輪の中にいる。あえて芯を見せないようにしている。
しかし、そんな中に一石投じたのが平岡氏で、眉唾指導法を徹底的に駆逐しにいった。
氏の動画を見て目覚めた人は多いと思う。
かつての「上手い人が言うことが正しい!」「理由はなんとなく後付でも!」みたいな風潮から、より筋の通った指導法を求め、批判的吟味で以って取捨選択をするべきだ、と思う人が増えてきている印象を受ける。となれば指導者側も相応の考察を求められるべきで、指導動画もより具体的でなければならない。
平岡氏の台頭に奮起されて(?)古武術卓球も後追いする形で露出度が増し、粒高ブロガーがアウトプットする場を求めてブログを立ち上げていった。
粒粒辛苦
ペン粒が古武術卓球を独学してみたが、(布袋卓球アカデミーに入会したので)独学じゃなくなった。
(前者は独自理論で深く考察、後者は手広く紹介することを売りとしているよう)
しかして世はyoutuber時代、ブログよりも人は動画に集まる。
指導動画シェアNo.1であるWRMの活躍は顕著で、上手い具合にキャラクターの棲み分けが出来ている。中高生向けにわかりやすくするために眉唾的内容をメインとしたぐっちぃ氏、技術系動画を理詰めで説明するやっすん氏、感覚を言語化しようとするXia氏と、考えられるジャンルの多くを掘り尽くした。故に、後続する他社の動画もこの流れを踏襲する形になっている。
勿論、お金の為には仕方がないとは思うのだが、、、二番煎じは面白みが無くなってきている。
同様の系譜でも祐コーチ動画はロジカルかつわかりやすく情報提供している。
しかして祐コーチはもっと核心に迫れるセンスが垣間見えるのだから、もっとこねくり回した理屈を見てみたい。。それを見てやっぱり凄い人だとうなりたい、、、
結局「祐コーチ覚醒、からの論客に」が今の私を満たす唯一の条件なのだが、どうも中高生層をターゲットにしている為にその兆しがない。
そうもやもやしていた時に、革新的な問題提起をした動画がWRM内にある。
それがはじめちゃん動画だ。
よくもまあこんなわかりやすく、考えさせる系の動画を作ったものだと感心した。
メタだらけな感がするし、聞き上手なだけあってさすがに芯がある。
古武術系の系譜からこうした発想に至ったのだろうが、彼の考え方は実は古武術系とは一線を画すよう感じる。
というのも、彼は「原因→結果」から物事を考える姿勢を見せているからだ。
指導動画の多くは、大きく二つの考え方を用いて作られている。
ひとつは原因→結果、もう一つは結果→原因である。
前者に代表的なのは平岡動画、後者に代表的なのは古武術や他動画一般である。(※あくまで私の印象ですよ。)
指導した動作が上手くいったかどうかを判断する基準を、放たれたボールに見るのか、適切な動作が行われたかに見るのかどちらなのかということだ。
どちらかと言えばボールから考察するのが結果→原因型、適切な動作ただ一点に重きを置きボールの質は二の次なのが原因→結果型(病態生理からのアプローチに似ていて妙に説得力があり、それ故に平岡氏を好むに至った。)
さて「○○の動作」みたいな感じでそれさえ出来ればいいボールが出せる系の動画を何度も見たことがあるだろう。
その動作をこなし毎度毎度うまくいった試しが果たしてあるだろうか。
本来ここでは2点考えなければならない。
1つはその動作が適切に作用する状況を理解することだ。よく私が考察するような場合分けをすることで、明確な条件化での「動作が持つ意味」が成立すると知っているならば、その有用性は実感しやすいだろう。
もう1つは交絡因子があるのではないかいうことだ。統計の勉強で知った概念だが、例えばとある病気Aの発生率と喫煙の関係性を調べたとしよう。かねてから病気Aと喫煙に関連性がある機序が判明しており、現実に関連性があるかどうか研究することにした。実際に調べて見ると病気Aに罹る人はタバコを常用する人が多く、更にはアルコールを常用する人も多かった。この時、病気Aに罹る人はアルコールとタバコを常用する人が多いため、アルコールもタバコも病気Aの原因となると言えますか?否、アルコールはタバコを吸う人が一緒に呑むことは多いが、直接的な関係性は指摘されてなく、アルコールを呑む人は一緒にタバコを呑むこと多い為、たまたま被っただけだった。この際のアルコールを交絡因子という。
実際卓球の指導法の多くはこうしたアルコールのような交絡因子を多分に含んでいる傾向がある。私が最小単位を多数の動画から研究して紹介しているが、それらを他の表現で示している動画を多数見かけるだろう。
それらの多くは他の余分な因子を足しつつ、結果的に必要なことを満たしているに過ぎない。
要はタバコを吸わせて癌にしたいため、タバコを吸いやすいように酒を薦めるということ。
結果的に癌になって大成功であっても、直接的な因果関係を持つタバコを強調されているのではなく、アルコールが直接的な因果関係を持っているかのように説明される。
故に、一見していいボールが出ているように見えても、見る人が違えば余分な動作や不必要な動作をしているように見えるということだ。
平岡卓球、古武術卓球共に独自の理論で中国卓球のエッセンスを盛り込んではいるが、それはあくまで交絡因子込みの結果論でしかない可能性は捨てきれない。私自身も同様に、最小単位から直接的な因果関係を持つ因子を考察してはいるが、これもまた交絡因子を持っている可能性を捨てきれないのだ。それ故に、常に考え直す姿勢を持ち続けなければならない。
さらに言えば中国卓球の指導法も全てが正しいとは限らないのだ。
そもそも中国は世界一だが、だからといって彼らが全て正しいことをしているとは限らないだろう。
知人の知人で、アメリカ在住で中国語を学び、中国の指導動画を研究されてる方がいて、動画を研究した結果言ってることが宗教過ぎて使えなかった、なんて話もある。
下手したら中国に根付く文化・価値観からして理解することが出来なければ下手に中国の後追いをしたところで中国に勝つことはできない可能性さえあるだろう。
「全てをなにからなにまで踏襲していかなければいけない。」
こう考えると、中国の指導法も何をするにも多分に交絡因子を含む可能性を捨てきれず、彼らが説明して言っていることとやっていることとが全く違うかもしれないのだ。
ここまで書けば多くの指導法に懐疑的にならざるを得ない。何せ、場合分けしての理解や、交絡因子を自ら見つけて情報処理する力が求められるからだ。
流石に両方を考えるとなると、なかなかに考える癖がついてなければ酷だろう。
そこで、考える手間が省ける方法が一つ挙げる。
それは、前述したようにその指導法が①原因→結果からできているのか、もしくは②結果→原因からできているのかを意識することである。
①であれば、原因が挙げられているわけで、もし仮にその原因がアバウトで交絡因子含みに思われるなら、自らでその原因を細切れに見ていけば直接的な因果関係を持つ因子を見つけることができるだろう。
②であれば、「良いボールが入った→その理由はこれだ、という構成」や、「良いボールが入ったので良い」としている為、結果論的考え方で交絡因子が①以上に含まれる可能性が高い。私の経験上の話で恐縮だが、このタイプは全ての交絡因子を洗い出すと全く違うものになってしまうため、その動画のエッセンスを生かすならば、そのエッセンスを満たす場合分けをした方がいい。
少し歯切れの悪い説明だが、いずれにせよ情報を有益に運用するならば、情報発信者の情報をある程度超える解釈が必要となる。
さて、ここまで読めばはじめちゃんが如何に異彩か十分におわかりいただけただろう。
がね氏と並ぶ情報の聞き手として、二人は違う立場を取る。情報を受容し、リアクション芸で指導者に考察を促すがね氏(後輩によくされてときたま頭に来ていたが、、、)、情報の受け手として情報の意味や情報の有り方を自ら考えたはじめちゃん(フラン氏との議論の日々を思い出す)。
中高生がターゲットのWRM内で唯一アカデミックな問いかけを含む動画を発信してきたのだ。
となれば今後はじめちゃんがぶつかる壁が何か検討がつく。
私が「動作の中で引き算を繰り返すことで3Hitを結果的に見出す」ことからはじめ、「3Hitに動作を足していく」ことで最適解を考察したように、独自の最小単位を見つけることだろう。
交絡因子の概念を知って、発信側もどちらからアプローチしているかを意識しなければ、受信側に正しく伝わらない可能性があることを知り私も反省した。
原因→結果からなる足し算の指導法なのか、結果→原因からなる引き算の指導法なのか
その指導法の汎用性の有無は、上記の立場の明文化から始まるだろう。
加えて、より自らの理論を内向きに分解していく必要性が生まれた時、広い知見が必要となる。
私であれば卓球知識のバックボーンが狭く、様々な試合動画や指導動画からインスピレーションを得た後に、解剖学・高校物理を用いて内向き研究を続けてきた。
平岡動画、古武術卓球であれば長年の卓球経験と、その道のプロに師事することで、独自の内向き研究をしてきたことだろう。だが、私が思うに、この二つはまだ独自の最小単位の提示を成していない。(だからこそ3Hitを考えるに至ったのだが)
もし仮に彼らほどの考察屋が独自の最小単位を設定し、それに足し算をしていく発想から理論を再考察すれば、一瞬で卓球を10年先に進めることだろう。
こうした研究の転換点はどの指導動画にも直に訪れるはず。
はじめちゃん動画には、そうした時代の訪れを感じた。メタメッセージが垣間見えるのだ。
けれど現在のWRMだとブレーンが心細い。バリバリの物理屋や、スポーツドクター、はたまた哲学屋なんかをバックに置けば、はじめちゃんをメインに据えた卓球理論が平岡動画、古武術動画に肩を並べる時代がくるかもしれない。
さてここまで長々と指導法の見方、考え方を考察してきたが、結局一番重要なのは国語力である。
文章を読んで因果関係を理解することが出来なければ、真意を見抜くことなどできやしない。
センスが無く、環境に恵まれていないならば、情報リテラシーを磨く他無い。
ここまで全て読んで下さった方は相当に根気強く、文章を読む力がある方だとお見受けします。駄文ですみません。
長文の締めがこれかと思われるかもしれませんが、これも敢えてです。
勉強は大事です。
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