最近哲学っぽいことばっかり考えてて、卓球ネタに触れられずすみません。
今回のも同様ですが、人間的に成長し、卓球を上達する上で必要なことかと思います。
某ブログでも似たネタを取り扱っておりコメントしようとも思いましたが、キッズに「売名だ」なんて思われるのも嫌ですし、なんならコメント字数制限もありますから、いつも通り言いたいことを超長文で。スタイルですから悪しからず。

数日前後輩と話していて、三日三晩考え続けたことを纏めていきます。




後輩と話してると、医学部って本当にヤバい人間の集まりだなぁと再認識させられる今日この頃。
何がヤバいってモラルとか常識の欠如に加えて(下学年のあまりのDQN行為に辟易し、医学部長に直訴したことも、、、)、自分ができていない人間が大半。

こんなことを日々考えている内に、卓球に置き換えて飛躍して考えてみた。数日勉強せずに。
すると、
「卓球の本質は感情と感情のやり取りだ。そのレベルに達していないならその人の卓球は、対人競技のレベルになく、ただのソロプレイと同義だ。」と思い始めた。
「感情の表出力、コミュニケーション能力の有無は卓球の実力に直結する」と思い、試合が下手な後輩との会話中、後輩のコミュニケーションスキルをじっと観察することにした。

するとコミュニケーションスキルが乏しい人間が多く、なんならろくに考えていない。
このコミュニケーションスキルとはただ愛想よく話せるという意味では無い。
一般には気付かれにくいだろう感情コントロールの為の細かい技を使っているかどうかという意味だ。

また、コミュニケーションスキルに幅がある方が、結局は自我形成がしっかりしているよう。


コミュニケーションスキルなんて一口に言えば様々あるかと思う。
なんとなくしか考えていない人ならば、「相手のことをよく考えて話すこと」とおぼろげに言うだろう。
例え細かい技を知っているとしても、それらが「会話」の為のスキルなのか、「対話」の為のスキルなのか理解しているかどうかで実際に使いこなせるかどうかも決まってくるよう思う。

1対多数の会話よりかは1対1の対話を好む私としても、どう考えても対話の方が難しい。
馬鹿なことを適当にタイミングよく言っておけば笑いが取れる会話と違って、対話の方が相手の表情に感情が簡単に見付かるし、テキトーすぎても楽しくさせられない。

コミュニケーションスキルと言っても、会話向け、対話向けと性格がある。
それらを意図的に使い分けているかどうかは別として、ざっくり挙げろと言われて実際どんなもん出てくるだろうか。

単に使う言葉や身振り手振りだけじゃない。
目線、表情、声の強弱・トーン・抑揚・語尾のフェードアウト、言葉のリズム(山形であれば敢えて海・内陸沿いのイントネーションにしたり)、ロールプレイ etc...

上に上げたのは私が実践してるなかでもあくまで一例だし、相手の感情を読み取り、相手に与える印象を調節しながら会話の優位性を取る為に、故意的にできることは案外多い。
自らがこうしたスキルを使いこなせるならば、仮に相手が使ってきた際の心情も読みやすくなる。

普段きつめな語調の女の子が、「バルサミコさーん」と若干トーン高めにやや柔らかい声で呼んで来たら、まず間違いなく自分にマイナスの要素があるだろうから、表情硬く、低い声を出す準備をして構える。
普段明るい後輩がどこか困り顔をしていたら、いつも通りめんどくさそうに声をかけるのではなく、笑顔を作ってトーン高めに多少澄んだ声で声をかける。

第一声を聞く、第一声をかける時点で感情の読み合いは、コミュニケーションスキルがある者同士での会話において始まっているといっていい。



会話における感情の読み合いは、そう簡単には崩れない自分を持っていて、相手を見る余裕が無ければしようという発想にはならないのかもしれない。
自分という存在が明確か不明確であるかどうかも、読み合いに参加できるかどうかを規定する一つだろう。


先日、後輩に印象的な一言を言われた。

「僕らはいつも評価されてきた。だから僕は評価されることを考えてしまうんです。」

なるほどな。この一言から私に投げかけられた命題はこうだ。

「自分が見えない時、彼らは物事をどう考えるのか。その時、人は何にすがるのか」

※以下はかなり私見が入っている為、異論は相当にあることを覚悟して述べる。

自分が見つかっていないうちは、自分をベースにしての主観的評価を当てにすることはできない。
つまりは絶対評価に見えてその実相対評価であるテストの結果や、親、もしくは先生なんかの「頑張っているな。」とか「もっと頑張れ」等のわかりやすい一言が唯一の評価基準となる。
自分がわからず、相手もわからなければ自己評価なんてできるわけが無く、他者からの評価を当てにするしかないし、それを客観的で正しいものと捉えるしかない。いわば自分がいないから、自分以外の評価全てを客観的だととるしかない。
これだと、他者の評価が客観的か主観的かを評価されている自分で、更に咀嚼するという工程が無いのだ。

きちんと自分を持ち大人になれば、自らを自己評価することができ、それと他者による評価を比較し、自分で咀嚼しようとするだろう。
いくら客観的な物の見方をされても、それがその実主観的で正しくは無いと思えばそれまで、単なる一意見としてスルーすることができる。
その一方で、他者の評価の内自分には当てはまらないものを消していけば独りよがりになる。
だが実際はその独りよがりが重要で、何でもかんでも他者からの評価を鵜呑みにする必要はない。他者が正しいとも限らないわけだし、正確な客観視などよっぽど化学的な視点で正しいとされるものでない限りは存在しないといいきってしまってもいい。
結局は自己評価が「自分なりに正しい」とすればオールオッケー、自己満足となる。だが、この「自分なり」の尺度がどの程度のものかというのも実際は考えるところ。
自分が属する社会において、その尺度は調節すべきだ。如何せん周りが子供だらけな場で、自分だけ大人っぽくふるまってしまっては子供に反感を買うだろう。ある程度子供っぽくふるまいつつ、自分を多少曲げて見せても、自分がしっかりとあることを忘れずにいさえすれば、多少の嘘も故意的で有意義なものと捉えることができるはず。


以上を題材に卓球の考え方を教えるにあたって、ただ「考えろ」とか「相手の視点に立って、相手の嫌がることをしろ」とか、まず言うだけでは実現不可能な馬鹿な一言を言わずに、選手の自我を成長させながら自ら考える癖がつくように指導する方法を考える。


①まず自分とは何かということを考えさせる。

勿論いきなり自我を持てといっても成長が望めるわけがない。より現実的に自分が卓球でできることを選手自らに考えさせて、自覚させることで、自分の卓球の全体像と意識させることが重要だろう。
「試合の一番重要な場面でおまえは何ができるか。」
その問いに対しもっとも現実的な手段が思いつくことは試合をする上で必要不可欠である。

②一般的な定跡形や、様々な戦術を教えた後、メリットデメリットを自他双方向の視点から教える

流石に定跡を自分でイチから作るのは難しい。
「一番競った時に低い短い下を出して、ループをすれば最強」みたいな定跡はあらかじめ知っておくべき。
そしてここでなぜそれが有効かという理由も説明したい。
メリットとしては自分からのもの(まずミスが無く、安定した攻めを展開できる)と相手からのもの(緊張した場面で回転のかかったループドライブにブロックで合わせるのはプロでもできないことがある等。)の両方を。同様にデメリットに対しても教えたい。
この定跡も流れとして教えてもいいし、単に一つの技術から、フリックをどこにどうしたらこうなる~みたいな形で教え、あらかじめ全ての技術に対してのイメージを持たせる。

③もう一度自分視点で考えさせ、実際に考えを聞く

それらが本当に自分ができるかどうかを選手自らに考えさせ、より現実的な解答を選手自身に見つけさせる。
実際の場面を想定しての考察ができ、メンタル的にできるできないもこの時見つけたい。(できるように暗示をかけるのもこのタイミングか。)
勿論、できるように練習を積ませるのも大事だが、問題点が分からずただ練習したところで意味はなさない。自らの卓球を決めるのは自分、その自分の卓球への評価を自分なりの基準で正しくすることができる経験を積ませ、よりその基準を一流のものへと昇華させていけばいい。

④総合的な演習をさせる

これまでの行程を全て自分でさせることができるような演習は必要不可欠だろう。
私はそのためにはダブルスが最も適していると考える。
流石にわからない者同士でのダブルスはなあなあになるかもしれないが、わかってる人とわかってない人で組ませ、わかってない人主導でダブルスをさせて、考える機会を与える。
「ロングサーブが効きそうだから出す」
「フリックでエースを取り51%理論だ」
「自分が点数を取りやすいコースに常に一発で狙う」
なんて、明らかにシングルス的なことをし出したら、わかってる人が正す、もしくはブチギレる。
総じて点数が取れなければ意味がないし、ダブルスこそお互いを理解していなければ成立しない。
なぜダブルスで低いナックルサーブが好まれるか、その意味を本当に考えさせる・教える必要がある。
レシーブだってバック奥に低くツッツキをするだけで、かなり多くの選手に勝てる可能性があることを考えさせる必要がある。
明確な理由、明確なストーリーを以ってして、点数を取ることのむずかしさと本当の意味を理解させたい。

だが、それなりの思考力が無ければ実現しづらいことでもあるし、なかなか難しいか。
実際、後輩とダブルスを組みプレーの差で教えようと言葉にせずに教えようにも、本質を理解されたことはまずない。
かなり言葉で教えてようやく理解されたかもしれない程度。学校の勉強だけじゃ太刀打ちできないのがダブルス。より若いうちから積極的にダブルスをして考える癖をつけておいた方が後々役に立つだろう。



ここまで考察していくと卓球というスポーツの難しさを再認識させられる。
他のスポーツでも同様なむずかしさがあるのかもしれないが、「細かい判断をし、適切な回答を常に準備して遂行する」この一連の流れをこなす為の時間が短いし、求められる動作の小ささ、再現性を保つのが感覚に頼る面が多く難しく、それら全てをこなす為には、こなせるだけの頭・ずぶとさ・自分自身を持たなければ強くなる可能性が閉ざされる。

自分を持たせてあげる手助けをするために時間をかけての「対話」を繰り返すことが出来なければ、選手本人に考えさせる癖をつけてあげることはできないだろうし、労力もかかるだろう。
だが、上記の手順は気付けば私が後輩皆にしていたことだし、長期にわたって私が対話を続けながら経過を見れた選手に至っては確実に技術面の成長も見込めたし、人間的にもある程度は成長してくれた。

個々で自らで自らと対話することができる程度に成長させることが出来れば、あとはほっといても勝手に成長するよう。だが、勝手に成長できるまでの人間性を確立させることは難しい。
これを選手に促し、選手の自主性が選手自らの成長に伴って生まれてくるよう仕向けることができるなら、まちがいなくその指導者は本物の教育者だろう。
ただここで勘違いして欲しくないのは、自分を決めるのは自分であっても、自分の方向性を決めるのは自分でなくてもいい。
他者に「こんなにいいところがあるんだから、それを伸ばしなさい」と言われ、伸ばした方がいい方向性を決めてもらっても、自分との内的な葛藤をするいい材料になる。
私も父親に、小学生の時空手の段審査で落ちた時、こうあって欲しいと私名義の作文を書かれた。
内容としては平凡ながら、一字一字に心がこもっていて、「段審査をもう一度受ける為に頑張るんだ。お前にはそれができるはずだし、次は必ず受かる。その為の努力ができる人間だろう」と力強く教えられた。
その作文に関する話は当時も一切しなかったが、その文章に秘められた深い愛情を私は十分に理解できた。
別に泣ける要素なんて何もないのに、人知れず泣いた。
私が頑張れなくなった時、思い出すのはあの作文だし、自分が見えなくなった時、思い出すのはバナブル先生である。
私という自我の方向性を見出してくれた父とバナブルは、いつも私の心の中で息づいている。
卓球をするにも先輩たちのプレーが、言葉が、いつも私の心の中でこだまする。


後輩に本当に教えたかったことは、私がいつも思い出すような、自分を形づくる為に必要不可欠だった方向性とも言えるような経験、振り返れば力になるような一言だったと最近になってようやくわかってきた。

だが生憎そんな名言をポンポン言えるような器じゃない。
私ができるのは寄り添って一緒に考えてあげることくらい。卓球の技術的な考察くらいしかろくにできることはない。

だが本当に大事なのは、育てるべきなのは人間力そのもの。

私が後輩達に名言を言えるよう次に学習すべきは解剖学ではなく哲学、心理学、精神医学とかその辺り。


・・・流石に国家試験三か月前にして哲学の闇に飲まれるのだけは避けたい。
卒業試験終えてから、既に一か月は棒に振っているし。
一度我に返ってみれば、私がなるのは、教師でも指導者でも心理学者でもなく医者だった。。
人のこと考える余裕は劣等生の私にはぶっちゃけ無い。


来年三月くらいまで、ブログの更新と密度を減らしていこうと思います。
長文を楽しみにされていた方は、、、、まずいないと思いますが、もしいらしたらすみません。

今後はフルドライブの各話考察と、気になった動画紹介をたまにする位にします。




では本業の医学の闇に、フルドライブ(駆動する)