誰でも知っているような常識を、あなたは本当に理解しているだろうか。

「1+1は2である」
「砂糖は甘い」
「下回転サーブは下回転がかかっている」

これらは誰もが知っている、常識的過ぎて当たり前なこと。
これらのことを「知っている」で普通は済ますが、さてこれらのことを「理解しているか」と言われればどうだろう。

この世の誰よりも完璧に知っているのをレベル100だとしたら、私自身は間違いなくどれもレベル100に達するまで理解していないと言い切れる。

というのも、どれも至極当たり前のことであっても誰よりも理解し、使いこなせている自信は無いからだ。

今回の「レベル100の理解というのは、誰よりも知り、誰よりも使いこなせているという意味」で定義する。


最近勉強をしていて常々思うのが、医師レベルの理解は到底学生目線では不可能だということ。
例えば「疾患Aに対し、検査所見でBがみられ、症状でCが見られた場合、治療法はDがある」と教科書に書いてあり、そのまま覚えたとしよう。

実際はそのままの知識で解ける問題も多くあるものだが、臨床現場の実際を問うている問題においてはその知識だけでは不十分で解けない問題もあったりする。
そうした問題を問く為の背景知識として、疾患Aに関するA´の知識であったり、B´、C´´、Dに関わるEとかFの知識等、その教科書通りに暗記すべき1行にまつわる様々なものが隠れていたりする。
それらを実際に覚えようとしても、臨床現場にいて様々な経験をしなければ必要とされない学生目線ではレアな知識であったり、普通に勉強したり、普通に実習していては学ぶことが出来なかったりする。

一般に「知っている」という感覚での知識は、「使いこなせるまでに理解した」知識とは全く別の次元のもの。

冒頭で述べた「1+1は2」なんて足し算の知識も使いこなす人であれば、コンビニなんかで常に所持する小銭の枚数を少なくするようお釣り調整をして立ち回るなど(私的に)おしゃれな買い物をする。

「砂糖は甘い」なんてのは化学の世界、生物学の世界、料理の世界で全く研究のされ方が違う。その分野のプロ毎で注目している観点も全く異なり、それぞれで深い理解をしている。

「下回転サーブは下回転がかかっている」なんてのも、「底を取れば下だよ」と宗教的に言う人もいれば、「ラケットを下に落とせば下だ」という人もいたり、下回転がかかる原理原則を理解して語り始める人もいる。
卓球においては知っていること=理解として思考を止めてしまったら最後、それ以上は見込めない。指導している立場にある人ならわかるだろうが、自分の思考が浅ければ浅いほどその分生徒に返ってくる。


ものごとを知ることで「知った気になる」のは自己満足する上では別にいいのかもしれない。簡単に知的好奇心を満たして優越感に浸れるわけだし。
ただそれで「理解した気になる」のだけは正直もったいないし、頭が悪い。

人間関係なんかでもそうだと思うが、相手を知るためには相手に寄り添う姿勢を見せなければならない。
相手を知る為に相手の立場に立つ、相手の思考回路に乗って考えてみる。
その際に相手のことを「理解した気に」なってしまっては、それ以上の関係性の構築は見込めないだろう。
そこから更にその人の根っこの部分を見にいくまでは、常にその人のことを理解する為に思考をやめてはならない。まあ相手に心を閉ざされて避けられたら別なのかもしれないけれど。




一を聞いて十を知る

なんていう、「物事の一端を聞いただけで全体を理解するという意味で、非常に賢く理解力があることのたとえ」の諺があるが、ちょいと屁理屈を言ってしまえばその人はいっても十しかわからない。

本当に理解している人は百全てを知っていて、更に万まで知っている。

一端だけで物事を理解しているつもりになってしまう人は、誤解していることもある。
十まで知っているのと、万まで知っているのでは意味合いが全く異なることだってある。
なんなら真逆の意味になることだって。

といっても偉そうにこう書いている私もしばしば理解したつもりが、十しか知らないが故に誤った認識でいることもある。

一番問題なのは十を知ったところで、百、千、万を知ろうとしないこと。
そういう人ほど価値観が狭く、くだらない世界、くだらない環境で満足してしまう。
この百、千、万はより広い世界を知ったからといって手に入れられるものでもない。その人の価値観そのものが、十で止まる程度の物ならば、どんな物事を知ろうとしてもせいぜい十どまりということ。
広く浅くで満足してしまう人間に、果たして本当の理解をする時が訪れることがあるのだろうか。

狭く深くでもいいから、何か一つのことにおいて百、千、万を知ることができるような姿勢を持っていたいもの。

私も自分の認識が甘ければすぐに修正する。ただ、自分の認識を修正したからといって、自分の認識が十止まりだったという事実が一旦周囲に知られれば、所詮その程度の人間、もう取り返しがつくことはないのも現実的な話。そればかりは覆水盆に返らずか。

結局大事なのは、知ろうとする姿勢そのものであり、いつ何時も知ろうとする、より理解を深めようとする態度を止めてはならない。一度止めてしまったら最後、取り返しはつかなくなる。


何を突然こんな話をと言えば、実際そういった誤解をされ、その誤解を解くことができなくなったことが何度かあったからである。

いくら自分が成長したからといっても、その姿勢を知ろうとしてくれない限りは何の意味もない。
相手が自分の十を知り、そこで理解を止めたが最後、自分の百を知ってもらうことはできない。

高校の時仲の良かった同期が進路に悩み、自暴自棄とも言える状況に陥っていた。
そんなに自分を卑下するなよ、努力をするタイミングがあると冷静になって考えろよ
私の方が当時は同期よりも進路に関しては達観していたし、あまりに細かい、しょうもないことで悩んでいるものだから、「努力するタイミングがまだある、もっと慎重になろうよ」という趣旨のことを伝えてあげたかったが、私の力じゃ殻を破ってあげることはできなかった。

聞く耳を持ってくれなかったし、理解させる術も無かった。
単純に私は不足していた。


相手に理解されるためには、相手の理解が止まらないことが絶対条件、そして理解を進めてくれるような立ち回りが必要となる。

だがそうして人に影響を与えるというのは極めて難しい。



その一方で、勉強や卓球なんかは、あくまで自分の理解を止めなければ大成するチャンスはある。

そして、自分が理解する姿勢を止めなければ、どうすれば他者に理解を続けさせるかわかるチャンスもいつか訪れるかもしれない。


物事の姿勢やら精神論やらに踏み込む話になってしまったが、どうもこれらは単純ではない。
知の奥深さを語る以前に、人間の奥深さは筆舌に尽くしがたいのだ。