「それは知っているといは言わないよ」
これはA先生に質問された時、わかりませんと答え、正解の解説をして頂いたとき、私が思わず「あーそれなら聞いたことありますね。前なら知っていました。」と返した時、脇にいたB先生が口にしたセリフである。
私の胸中では「それはそうだけど、そんなんわかりきってるんだからわざわざいわなくてもいいじゃん…」と悶々とした気持ちが渦巻いていたのだが、「知っている」ことに関してそれから数日考える機会となった。
知るをテーマに?ここ一年で印象的だったエピソードを上げてみる。
①ベテラン外科医の視点
私がよく面倒を見て頂いている先生は、オペが凄ぶる上手い。
どれくらい上手いかと言ったら、卓球に例えて一般に上手い外科医が県大会チャンプレベルの卓球とするなら、その先生は最低でも全日本ベスト4くらいには上手い。
その辺の病院にいてしまっているわけだが、出世欲さえあればより知名度の高いドクターになっていてもおかしくない。
さて、何が上手いかと言えば、手が全く止まらない。
まず血が出ないから滞りなく進行するし、止血で手が止まることが無い。
手技一つ一つのスピード(糸結びがめっちゃ早いetc)があるというわけではなく、手順と手順の繋ぎが明らかにスムーズ。
普通の外科医が手順1、2、3、4、5と順繰りやっていく場面を、1をやりつつ4や5の手順まで読んで動いていくため、途中で「これなんだ?」とか「ここに血管あったの見えなかった」なんてことはなかなか見られない。
なんなら、「ここに血管見えないけど、大体出血するのはこの辺だから、まぁ出血する体で道具はこれ使ってチマチマやろう。看護師さん、糸結ぶだろうから糸だしといて。」なんて風に3手、4手先まで読んでいる。
若いドクターが「なんでそんなに上手いんですか」と問うと、「手術は膜だ。俺は膜がよく見える」といい、学生目線では1層にしか見えない膜も3層に見え、教科書に無く習ったことのない知識である三層に見えない構造のその一枚一枚を解説しながら、鮮やかに術野を展開していく。
若いドクターも「いつから見えるようになったんですか」と問うと、「いつからだろう。わからないな。突然だった」
おいおい、異能力者かよ。
しかし転換点は経験の積み重ねのよう。
経験の積み重ねが点(知識)となり、それが線として全て繋がったと。
たぶん、多角的視点から知識のつながりを見つけることが重要なのだという意味もあったのかも、いやなかったのかも。
②どこに重きをおくのか
※以下は脚色いれます。割と前に経験した話です。
ある病気Aを持っている人がとある皮膚の病気になった際、皮膚がびりびり避けてしまうBという病態に陥ったとする。
この時、医師目線としては病気Aの改善が見られない限りはBを治すことはできない。
どちらかと言えば、Aが治らないままであればBは悪化していくだけで、治療できないのだから、Bという病態にだけ注目するのではなく、Bに関しては対症的に加療して、Aの治癒を待つと考える。
一方でナース目線としては病態Bのことはよく見ているからしっているが、病気Aのことはよく知らず、AとBの因果関係がよくわかっていない。しかし、病態Bがある時点でこれをすぐに治療しなければいけないと思い、より積極性のある選択肢を医師に提示し、むしろ「なぜやらないのか」と問い詰めてくる。ただ、医師の目線からその選択肢を取った場合悪化する一方であるため、やるだけ無駄というより明らかにマイナス。
とある医師はナースの前では言わなかったが、あとでこそっと私に教えてくれた。
「彼らは局所的にしか物をみていないから、自分の領域で話をしてくる。我々医師は局所ではなく全体を見て考えており、何をするにしてもそのアウトカムが患者に有益かどうかを考える。また、ナースにはエビデンスに基づいていない自分たちで決めたルールも多く存在し、それに固執する。病院というローカルな施設で、外部との勉強会や研究会の無いナースには平然とローカルルールがはびこってしまう。その溝は難しい。うまく付き合っていかなきゃいけない。」
ナースの進言を私ははじめ「勉強しているんだ、素晴らしい」と捉えたが、それは学生目線の知識ない者の意見。
専門家が「有意なエビデンス」を武器に語った場合、私は即座に医師側に肩入れする。なにせそれが間違っていないことの証明になるのだから。
物事を考える時に考える根拠を「論理的に正しいもの」ととるのか、「みんなが正しいもの」ととるのかで全く話が変わってくる。
③知らなければ何も見えない。
とあるコメディカルの卵の話。
私が手術室から集中治療室に戻ると、一日体験として4人くらいのとある職種の卵がきていた。
彼女たちは決まってリング式のメモ帳にペンを持ち、様々メモをしようとしていた。
「少しだけだよ」とナースに見せてもらいメモをしていたのは、正中切開で腹の手術をして帰室してきてばかりの患者の術創。
それを、必死にスケッチしていた。
おなかに真っ直ぐ一本の線を。
それも線だけ。
絵をかくならお腹の絵を全部かかなきゃ意味が無いし、キズの位置がわかるように乳頭、肋骨弓、腹の輪郭、骨盤などなども描き、加えてドレーンの有無、キズの保護に何を使っているか、出血は無いか、空いてはいないか、とかその辺を見るべきなのでは。
また、帰室してきてばかりの患者さんで、ナースがバタバタ服を着せたり、身の回りのお世話としている時にバイタルのモニター(心拍数、心電図、血圧など)を見て、数字をメモしていた。
そして血圧が200を越えたり、心拍数が90くらいから突然測定不能になっているのをメモして、後から焦っていた。
4人で色々「あれはどういうこと」「絶対やばいのになんで何もしないんだ」と言わんがばかりの不思議そうな、というより職員さん皆気付いていなさすぎじゃない、と多少懐疑的なニュアンスも含む、そんなリアクションをしていた。
たださっきも書いたが帰ってきてばっかりで、血圧計をゆるめて、心電図も外して、服をきせたりなんなりと術後のお世話をしている最中。そうした数字の変化があるからおかしいとみるのではなく、目の前の患者の状態とどういった処置をされているか見ないとお話にならない。
モニターを見るばかりで得られる情報など、その時点では何もないようなものである。
見るものは一緒でも、その背景となる知識を知らなければ見え方は変わる。
見るべき点が狭いと、何も見えなくなる。
そういった一例。
はて、これまで長々と実習であったことから、「知る」をテーマにまとめてみた。
これらから一気に飛躍して考察する。(いつもどおりですみません。)
まず、知るということは単発では意味をなすことは無い。
意味のある知るというものはストーリーや理屈を含むもの。
しかし、その意味も自分が本当に意味を理解しているものでなければ、ただの「知っている」でしかない。
最近思うのは、いくら合っているものであっても自分が納得いくような理解ができるものでなければ身になることはまずないということ。
そしてその理解が出来ない場合の多くが、言葉の壁によるものであるということ。
ナースとドクターの話に関してはほぼこれ、言ってしまえばアカデミックなドクターと医学的知識を知らなくても働けてしまうナースの差、考えている土俵が違う。上っ面か、それとも深い内容なのか。
こういってしまうと流石にdisっているように聞こえるかもしれないが、そういう意味は無い。
経験とルールに裏打ちされたナース社会もまた非常に大事なものである。
ただ、範疇を超えて口を出すということは、それなりに「根拠」が無ければならない。
「明らかなエビデンスを含む論理的内容」 対 「いつもそうしているから、だれだれ先生に言われたから」
であればどちらを優先するか。それも、もし死に直結しうることならばどうするか。
死などと大仰しく書いたが、つまりはそういうこと。自分がどれだけ委ねられるかはおおよそ自分が納得できる根拠の信憑性によって決まる。
しかして、こうした意識解離は業種間で起きるのもしょうがない気がする。ドクターの慣例とナースの慣例はあまりに違う。もしここでお互いの言葉お互いに通じ、その背景までわかることができたならば、同じ次元での議論ができたはず。 どちらが譲歩すべきなのか。ただ、かかっているものを見ればそれは明らかであろう。
一発で全てを失うドクターの方がより知識があるし、その知識の質もとことんまで突き詰められたものであるのは当たり前。立場が等しくなった時、ナースもそのレベルの知識を求められることになるだろう。
私が卓球を教えていて理解されないことの多くは知識の壁によるものが多いかもと思っていたが、実際は言葉の壁が大きいのではないか。
言葉の壁、といってもその言葉を知る知らないで差が生じてくるといった論調で考えようとしているが、これもまた知識の壁か。。。
結局は私が教える時に障害となるのは、経験、知識の差があまりに大きいこと。
負けた経験、勝った経験、プロの試合を見てかんじたこと、考えたこと等、明らかに私の方が知りすぎていて、説明をする際に頭の中にイメージしているものが、教えられている側に無いのが問題である。
医療という現場で最低限の知識しか知らず、その場で機転を利かせたり、知らないながらに何をドクターが考えているか雰囲気やら手技やらから推測したり、あとは他業種の一挙手一投足まで観察して・・・なんてやってる医学生の目線からするならば、実習で回ってるうちに知らないからこそなぜ知らないかを考えることができるようになった。
知らないからこそ知識の重要性を知り、知らない知識と知らない知識の連動性の説明をされても連動があることだけは知って、後にそれらを調べるようになる。
こうした全くしらないことのつながりといった理屈っぽいことでも、とりあえずメモをして考えよう調べようとするものだが、逆にこれができないのが酷い。
つまり、教えられている時に理屈っぽいことを忌避するのは、本質を知る機会をすてているということ。
「皆が理屈聞いてなさそうだから」と聞き流すのはは知に関して成長する機会を失わせる要因である。
それに、知識の連動性なんかは自分で見つける為にはそれこそ考えていかなければわからないこと。
学問であればそうした説明をされている文献を見つければそれまでだろうが、卓球なんてろくに研究もされていないものに関しては聞き流したらもう終わりである。
そうした、皆がやっていない理屈っぽいことを忌避し、「みんながやっている」ことを鵜呑みにしてどんどん間違いの卓球が増えていく。
しかし、そうした間違いの卓球を否定するにもきちんとした理屈が無ければ難しい。
そしてそれが理解されなければ意味が無くなる。
・・・私のブログの特性上一番難しい命題なのかもしれないが。
そろそろ結語としてまとめたいのだが、
きちんと校正して時間をかけて質の高い記事を上げるように心がけた方がいいのかもしれない・・・という自省。
ただ、それはもうしんどい。
だってそうでしょ、自分でまとめノート作ったものを人に見せられるようにわざわざする人がいるかという話。
最近は色々な人にコメントを頂き、それに返信する形で自分の記事のずさんさに気付けている。
もうこのスタイルでいいんじゃないか、と。。
感じた事でもわからないことでも尋ねてもらい、それに関する再考察記事を上げる。これなら飽きずに同じ記事を見直せます。
しかして、そんなことよりも、私の記事で考えたこと、思ったことをじぶんの周りでもいいから発信していってほしい。
少なからず、回内・回外に関して理解の進んだ方が増え、コメントを残していってもらえてるだけでこのブログの意味はなしたように思える。
5年後、10年後に卓球王国に回内・回外という言葉がでるようになれば、私がブログを始めたことが報われる気がする。
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