※4/26改訂


卓球の感覚には「弾く」と「かける」の二つがある 
私も以前、そのように考えそのようにブログにまとめたことがある。
弾きの本質

実際初心者指導にもそうした教え方をし、バックハンドもバックプッシュ系から教えていた。
練習でも試合でもよく入るし。
当時見ていたWRM動画のぐっちぃ氏のバックをイメージしながら
よくある日本式バックハンド


多くの日本の指導者は上記のような考え方を持ち、十分にロジカルに教えることができていると思う。

そうして、弾く感覚を持っているからバックハンドが安定し、ブロックもでき、カウンターができる。
試合をする際に不自由はない。ただ、レベルが上がり、次はバックドライブを教えようとすると、今度はかける感覚を学ぼうという風に。
そうしてかける感覚の身につかない選手を軒並み粒高や、表ソフトに変えてしまう。

そう、この順序は非常にロジカルに、そして極めて悪質だということは見て取れる。

ここで普通は疑問に思うべきで、かける感覚っていったいなんなんだ、と。
 
そもそも感覚とは何なのか 
ここを言語化、考察できている指導者、動画は見たことがない。
そもそもかけることが上手くできない人間を淘汰してしまうような指導形態が、現行で一番信仰されている論理体系に組み込まれている時点で考察されるわけがないのだが。
そもそも感覚と言って思い浮かぶは五感。五感のどれか一つでもを客観的に完璧に評価することができる術はない。聴覚検査も主観的であるし、聴性脳幹検査なんかで客観的に評価できるにしろ、どう聞こえているか定量できるものではない。せいぜいあるかないかの程度。
卓球における感覚は触覚であり、触覚を客観的に評価することができるならば神経学的大発見であろう。要は不可能ということだ。

感覚という単語を否定した場合、どういう表現が適切であるのか。
よく引き合いに出すが、信愛する平岡氏が卓球はラバーに「引っかかる」のだと言う。

この引っかかるという表現が「言い得て妙」であり、あくまで「引っかかる」とした受動的ニュアンスを強調している。

これは現行の「かける」「弾く」といった能動的表現とは一線を画す、極めて挑戦的な表現である。
従来の真逆の表現といっていい。

さて、「ひっかかる」という表現と、かける弾くという表現の違いで実際の運動にどういった影響が生まれるのか。

基本的に平岡氏は「ひっかかる」という表現から言うように、自発的に回転をかけようとしているわけではない。正しい運動をした結果「ひっかかる」ことで、ボールに力が加わるといった意味合いであり、事実フォームであったり運動の条件化を非常に重視する。氏から直接言葉で聞いたことは無いが氏の理論をみていくと、「AA」「BB」「CC」といった条件を全て満たすことが出来れば、感覚は後からついてくる、運動条件>感覚であると考えているようにみられる。
運動の結果として感覚がついてくる為、正しい運動をマスターし、正しいボールを打てた際に初めて感覚を理解する。それ故に正しい感覚のみを再現性をもって持つことができる。


一方で一般的に指導法は「かける」「弾く」といった感覚が全ての礎となる。その人の感覚が合うようなオーダーメイドのフォームを形成するため、感覚>運動条件となる。
こう見れば感覚重視、人それぞれで十分にいいじゃないかと思えるかもしれないが、これこそが卓球指導の悪いところのオンパレード。
打球感覚は人それぞれにも関わらず、感覚に依存する割にフォーム指導は超がつくほど適当で、全員のフォームを指導者好みに全て統一しようとする。
「肘を曲げるな」とか「前腕を使うな」とか「肘を引くな」とか、かける際にどういう動作を用いてかけているかよくわからずに、その人の持つ感覚を使えないようなフォームに矯正させようとする。
終いには入らない時も「その間違う感覚も大事なのだ。そうして正しい感覚に調整しろ」だなんて、当たり前のように正しい感覚を手に入れるまでの回り道を強要し、結果的に正しい感覚を理解できないまま上達する機会の得られなかった市民プレイヤーがこの世にごまんと生まれてしまった。

私はその現状がどうにも腹ただしいわけで、感覚を理解できていないのに、解剖学もろくに理解できていないのに、矛盾が生じるようなフォームを教えるなと思うわけだ。

経験者の後輩を見ていても明らかに矛盾点を含む指導を受けていたり、近場の高校生を見ていても熱心な監督に熱心な間違った指導を受けていて、その指導者になぜそうするのか延々と問い詰めたい気分になる。 


しかし、感覚から入って上手くなる選手も少なからずいる。
フォームを一から教わらず、何となくのアドバイスから自分のベストなフォームを見つけ、強制されなかった場合だ。
そういう選手の場合、かける感覚、弾く感覚を完全に分離させることが無意識にできている。

完全に分離させるとはどういうことか

以前ブログでも書いたことがあるが、完全に分離させるには感覚として考えてはならない
感覚を運動として具体的に表現して覚えるべき。

フォアハンドを例に出すが、
「かける感覚10:弾く感覚0」であれば、垂直面でボールの真下から真上方向にスイングし、ボールの下半分をインパクトすることで、超ループドライブに
「かける感覚0:弾く感覚10」であれば、垂直面でボールとラケットの位置エネルギーを同一にし、ボールの中心をボールの進行方向に対して垂直方向にスイングしてインパクトすることで、ナックルスマッシュ
となる。

一目みてわかると思うが、感覚をきちんと言葉にしてみれば運動が先行し、適切な運動ができてはじめて感覚があとからついてくる。
かける感覚を言葉で表現した際、感覚的な表現で一般化・定量化することができず、具体的な運動でしか表現できない以上、感覚という表現に依存することに意味は無いと言っていい。
とどのつまり、表現をしようとしたら長文になり、面倒だから誰かが「感覚」と簡略化し始めたことから、卓球を難解にし、下手な経験者を量産してしまったのではないか。





「全ての技術に3Hitは隠れている」

と私は再三述べているが、所謂かける感覚、弾く感覚も3Hitを用いた方が理解しやすい。
「弾く」は打球直前3cm~直後に至るまで面移動はボールの進行方向にしか動かない
 「かける」は打球直前3cm~直後に至るまで面移動はボールの進行方向に対して垂直方向にしか動かない


如何に感覚という表現に固執することが愚かか、に関しては最近初心者指導をしていて身に染みる思いで実感している。これまで指導してきた後輩には申し訳ない。

現在の運動方向からどういったボールが出るかを説明しながら教える方が、感覚的に指導する際と比べて、上達スピードが10倍くらいの指導効果が実感できる。
4時間卓球してバックドライブ~チキータまでできる全くの初心者がポツポツ出てきてしまう。
私の3Hit+平岡氏のAA、CCに基づく指導方法が優秀すぎる、と自画自賛していたが、それはある種あっていてある種間違っているのかもしれない。

卓球における感覚とは打球時の「感覚」であり、再現性を生むための工夫を所謂「センス」と称してないがしろにしてきた。そこに再現性を求める為に、どういった運動で感覚的が技術が行われているかアプローチし、プロの技術を丸裸にしようとするのは至って普通のことなのではないか。
センスという先天的な意味合いを打球感覚と被せてしまうが故に、やたら格式高いイメージを植え付けていた。感覚に縛られていたのだ。

そもそも感覚なんてくだらない概念に縛られていたせいで、卓球の「スポーツ」としての側面を意識的に、あるいは無意識的に避けていたのかもしれない。


普通は新たなことばが生まれれば新たな概念が生まれ研究が進むものである。しかし、感覚という当事者でなければわからないものに縛られていたせいで、新たな考え方が生まれなかったというのはなかなかに珍しいものなのではないか。

平岡氏の動画シリーズは明らかに卓球界に一石を投じるものであり、日本の指導者の多くを淘汰してしまう強烈なものである。
どういった運動か、どういった面かにフォーカスを当てることで、感覚偏重型の考え方を打開する。

会員で無くメインの動画を全く見ていないながらも、ボチボチのネタバレをしている私としては見れば考察せずともそうした卓球をどういった運動からか切り込んでいく氏の指導スタイルは、「スポーツとしての側面における真の卓球」に近づけるが故、シェークハンズ動画を猛プッシュせざるを得ない

氏の動画は豊富な考察が盛り込まれているだろうが、大方考察の足りていない部分も散見される。
事実、氏が気付けていない事柄も私の周囲の研究班で見つかっている。
一般レベルの我々がたどり着いてしまうのもまた、感覚のように「進歩が見込めない概念」として氏が捉えているものを動画シリーズを見ていないため、我々が知らないことに起因すると考えられる。つまりは全てを見てそのまま受け入れようとしないからこその考察があるからだ。



情報を得た際に自分で考えないと身につかない 

これは何にでも通じることである。
ただ、絶対的な公式となる考え方も存在する。
打法に関して言えばもっとも原始的な概念、ボールにあたる直前の運動方向に関しては卓球において足し算引き算レベルのものであると言えよう。
そういう意味で3Hitを、もしくは3Hitに頼らずとも、自分の卓球の原理原則となる打法を見つけられたい。 

ベースがあるからこそ、新たな情報を得た際に使えるかどうかがわかる。

ベースがあるからこそ、技術紹介動画の説明が思いっきり間違っていても言いたいことから正解を抽出し、自分だけでも理解できる。

卓球においても情報は相当に増え、自分で情報の取捨選択する機会も多い。 

強くなるために本質を見つける力を。

本質を見つける力をみにつけることができたなら、日々の挑戦と思考を止めなかったら
練習の度に、考察の進んでいない卓球と言う名の大海で目指せワンピース。
そうして、日々の練習がさらに面白いものに変わるだろう。