今回のネタの発端は、ふと、自分の部をヤフー検索したら
「○○大学医学部卓球部 新歓ビデオ」
と予想検索に出てきたこと
そう、うちの大学も今週から新歓シーズン
一年生を勧誘しようと作戦を練ったり、予定を立てたりと大忙し
部員一人一人がモチベーションを持って、接したことが無い後輩たちにコミュニケーションを取りに行く
新歓と言えば、
全ての医学部系の一年生を呼び、全ての部活の紹介をする学生主催のイベントの中でも一番大きく、関心も寄せられる行事
大きい講義室を貸し切っての部活紹介ではスクリーンに各々の部活が作った紹介ムービーが流され、檀上で説明するのが一般的で、勧誘の声が飛び交う中でムービーやら説明の声やらなかなかに騒々しい
そんな中でも私が一年生の頃は卓球部に関してはじっくり見てどんな雰囲気なのか気になっていたもの
何事もファーストタッチが大事で、私が新歓で話した先輩が誰なのか未だに覚えており、その時の雰囲気が良くて入部を決めた(新歓でどう接されても別に卓球をしたさに入ったとは思うが、、、)
丁寧におもてなしをされたのもあり、自分が勧誘する側になってからはなるたけ新入生が気を遣わなくていいように、なるたけ普段の雰囲気を見せられるようにと気を遣って接するようになった、そうして人と接することを学んでいく医学部生は少なくない
医学部は伝統的に一年生には何でも奢るといった文化が根付いており、他の学部からはあまりに非常識的だと揶揄されることもあるが、私個人としては先輩に受けたおもてなしを後輩にお返しすると先輩に学んだ経緯もあり、ある程度は肯定的である。(常に奢るというのは懐疑的であるが)
しかして、そうした物で釣る精神しか見ることができないのが一年生、年数を重ねていく内に心で釣るようになるのが上級生と見るとなんとも響きがいい
そうしたこともあってか、私が新歓動画を見ても湧き上がる感情が年数を重ねていくうちに変わってくるもの
昨年の動画を見ると、ずっと面倒を見て下さった先輩方や、先に巣立っていった可愛がっていた後輩達が動いていたり、笑っていたりと確かにその中では生きていた
すると突然いろんなことを思い出す。まず新歓でどう接して頂いたか、そう勧誘しにいったか、どんな卓球をしていたか、どんな会話をしたか・・・思いだし始めたらとまらないものだが、どことなくこみあげてくるものがある。
もう会おうにも、気合いを入れて予定を合わせてその中の一人に合いに行く程度しかできない
当時全員が全員顔を合わせることが普通であっても、今や難しいものになっている
心の中で写実的に残っている何気ない1シーンが、十分に私の宝物になっている
こう表現してしまっては、感傷的になっているのがわかりやすく伝わってしまうものだが、やはり写真やら動画でその当時の自分の置かれた状況や心情等詳細に思い出すことは簡単である。
実際自分の卓球の試合動画を見れば、その時何を考えていたのか、何を読んでいたのか大体を思い出せる(勿論何も考えていなければ何も生まれないかもしれないが)
自分の試合している感じでは非常に苦しく思えていても、実際試合を見ている限りでは楽勝に見えていたりもする
試合で負けて、相手に感想戦をしに行った際に、内容的には負けていて点数の開きがあったとしても点差以上に辛かったと言われることが多々あった
いやいや、お世辞がうまいなぁとその時は思ったが、確かに内容的には負けてはいたが、相手には苦しい繋ぎを催促できていたり、頑張って一発を打たなければ相手の点数にならず、それを高精度で相手がこなしてきて負けたりと、相手を頑張らせて相手が頑張れたから負けたと言える内容だった
実際に試合をしてる側と、見ている側では解離がある
それは以前のサーブゲーの話でもしたと思うが戦術的な見方を身に付ければある程度は埋められるものである
しかし、戦術理解を完璧にできればアドバイザーに入った際に適切なアドバイスをできるかと言えば答えはNOである
ある程度アドバイスされる選手の技術量、精神状況を理解してあげなければ遂行に至ることはない
如何せん私のするアドバイスの多くは対戦相手の情報から対戦相手の技量を幅を見切り、それを逸脱することを目的とした配球と攻撃的技術からの得点、そこでミスを催促できた際の推定精神ダメージから作戦内容を決めていく為、選手の勇気があることが前提となってしまう
勇気を持って強打できない選手、浮き足だってしまう選手には言葉の力で精神強化して試合に臨ませるが、それであってもビビッてしまう選手にはなかなかアドバイスしようにも手詰まりとなる
少なからず、(自分で言うが)こんなに優秀なアドバイザーが居れば同格~少し格上くらいには自信を持って臨める筈だがそうでない場合の多くは、選手自身が
・作戦理解が乏しく、程度がわからない
・相手の状況を見ていてわからない
・自分の状況もわからない
こと等が挙げられる
相手を理解しようにも、自分を理解できていなければできないし、自分を理解していなければ作戦も理解できない
全ての始まり自分ということになる
自分を理解するためにはどうしたらいいか
それは自分の程度(無力さ)を知るというのが一番手っ取りばやいのではないか
新歓とか先生とフリートークの際に手詰まりになった時にどう対処するか
→相手のことを思って何かしようとしたときに、まず自分がこれまで接してきた人たちに何をどうされてきたかを振り返る
→→その中で自分が良いと思ったことをやってみる
→→→それでもだめなら検討し、最前が何かを探す
そんなことするよりバカ話を延々と続ける方が簡単だろうか、こうしてコミュニケーション力をはぐくむことはできるはず
新歓というイベントでやるべきは一年生を勧誘することであるが、学べること、学ぶべきことは案外多いのかもしれない
初対面の人と接することが仕事となるだろう将来を考えても、好意的に接してくれる初対面の人とだけ話せる機会は貴重なもの
バイト、実習なんかに出ても必ず相手の対応がいいとは限らない
ホスピタリティの重要性を新歓を通じて解き、卓球でも大事だよと言おうとしてきたがそもそもホスピタリティって何だろう、そう思ってネットで調べてみた
そしたらこんな一節が出てきた
価格は一日、品揃えは三日で真似できるが、サービスは一生真似できない」 ということわざがある通り、サービスつまりホスピタリティは究極の差別化手法なのだ
ホスピタリィとは差別化であると。良いを知れば良いをより良いにできるし、悪いも知ることができる。
対人競技であり、戦術性に富む卓球においてもコミュニケーションにおける駆け引きはそのまま運用可能である。
私の尊敬する先輩はコミュ力が高く、戦術的でメンタルが強く、応援に入って頂ければただただ心強かった
あんな風になる為にはどうしたらいいかと日々考えたものだが、やはり同じようにはなれなかった
ただ、年数を重ねる毎に自分なりのスタイルというものにはたどり着いた。
自分ができてくれば、自分でいい。それである程度評価されているならばそれでいいと思う。
日常を適当に過ごすのではなく、何かしら考えながら物事をすると、卓球とか他のことにも大きな影響があるかも
そんな話でした
「○○大学医学部卓球部 新歓ビデオ」
と予想検索に出てきたこと
そう、うちの大学も今週から新歓シーズン
一年生を勧誘しようと作戦を練ったり、予定を立てたりと大忙し
部員一人一人がモチベーションを持って、接したことが無い後輩たちにコミュニケーションを取りに行く
新歓と言えば、
全ての医学部系の一年生を呼び、全ての部活の紹介をする学生主催のイベントの中でも一番大きく、関心も寄せられる行事
大きい講義室を貸し切っての部活紹介ではスクリーンに各々の部活が作った紹介ムービーが流され、檀上で説明するのが一般的で、勧誘の声が飛び交う中でムービーやら説明の声やらなかなかに騒々しい
そんな中でも私が一年生の頃は卓球部に関してはじっくり見てどんな雰囲気なのか気になっていたもの
何事もファーストタッチが大事で、私が新歓で話した先輩が誰なのか未だに覚えており、その時の雰囲気が良くて入部を決めた(新歓でどう接されても別に卓球をしたさに入ったとは思うが、、、)
丁寧におもてなしをされたのもあり、自分が勧誘する側になってからはなるたけ新入生が気を遣わなくていいように、なるたけ普段の雰囲気を見せられるようにと気を遣って接するようになった、そうして人と接することを学んでいく医学部生は少なくない
医学部は伝統的に一年生には何でも奢るといった文化が根付いており、他の学部からはあまりに非常識的だと揶揄されることもあるが、私個人としては先輩に受けたおもてなしを後輩にお返しすると先輩に学んだ経緯もあり、ある程度は肯定的である。(常に奢るというのは懐疑的であるが)
しかして、そうした物で釣る精神しか見ることができないのが一年生、年数を重ねていく内に心で釣るようになるのが上級生と見るとなんとも響きがいい
そうしたこともあってか、私が新歓動画を見ても湧き上がる感情が年数を重ねていくうちに変わってくるもの
昨年の動画を見ると、ずっと面倒を見て下さった先輩方や、先に巣立っていった可愛がっていた後輩達が動いていたり、笑っていたりと確かにその中では生きていた
すると突然いろんなことを思い出す。まず新歓でどう接して頂いたか、そう勧誘しにいったか、どんな卓球をしていたか、どんな会話をしたか・・・思いだし始めたらとまらないものだが、どことなくこみあげてくるものがある。
もう会おうにも、気合いを入れて予定を合わせてその中の一人に合いに行く程度しかできない
当時全員が全員顔を合わせることが普通であっても、今や難しいものになっている
心の中で写実的に残っている何気ない1シーンが、十分に私の宝物になっている
こう表現してしまっては、感傷的になっているのがわかりやすく伝わってしまうものだが、やはり写真やら動画でその当時の自分の置かれた状況や心情等詳細に思い出すことは簡単である。
実際自分の卓球の試合動画を見れば、その時何を考えていたのか、何を読んでいたのか大体を思い出せる(勿論何も考えていなければ何も生まれないかもしれないが)
自分の試合している感じでは非常に苦しく思えていても、実際試合を見ている限りでは楽勝に見えていたりもする
試合で負けて、相手に感想戦をしに行った際に、内容的には負けていて点数の開きがあったとしても点差以上に辛かったと言われることが多々あった
いやいや、お世辞がうまいなぁとその時は思ったが、確かに内容的には負けてはいたが、相手には苦しい繋ぎを催促できていたり、頑張って一発を打たなければ相手の点数にならず、それを高精度で相手がこなしてきて負けたりと、相手を頑張らせて相手が頑張れたから負けたと言える内容だった
実際に試合をしてる側と、見ている側では解離がある
それは以前のサーブゲーの話でもしたと思うが戦術的な見方を身に付ければある程度は埋められるものである
しかし、戦術理解を完璧にできればアドバイザーに入った際に適切なアドバイスをできるかと言えば答えはNOである
ある程度アドバイスされる選手の技術量、精神状況を理解してあげなければ遂行に至ることはない
如何せん私のするアドバイスの多くは対戦相手の情報から対戦相手の技量を幅を見切り、それを逸脱することを目的とした配球と攻撃的技術からの得点、そこでミスを催促できた際の推定精神ダメージから作戦内容を決めていく為、選手の勇気があることが前提となってしまう
勇気を持って強打できない選手、浮き足だってしまう選手には言葉の力で精神強化して試合に臨ませるが、それであってもビビッてしまう選手にはなかなかアドバイスしようにも手詰まりとなる
少なからず、(自分で言うが)こんなに優秀なアドバイザーが居れば同格~少し格上くらいには自信を持って臨める筈だがそうでない場合の多くは、選手自身が
・作戦理解が乏しく、程度がわからない
・相手の状況を見ていてわからない
・自分の状況もわからない
こと等が挙げられる
相手を理解しようにも、自分を理解できていなければできないし、自分を理解していなければ作戦も理解できない
全ての始まり自分ということになる
自分を理解するためにはどうしたらいいか
それは自分の程度(無力さ)を知るというのが一番手っ取りばやいのではないか
新歓とか先生とフリートークの際に手詰まりになった時にどう対処するか
→相手のことを思って何かしようとしたときに、まず自分がこれまで接してきた人たちに何をどうされてきたかを振り返る
→→その中で自分が良いと思ったことをやってみる
→→→それでもだめなら検討し、最前が何かを探す
そんなことするよりバカ話を延々と続ける方が簡単だろうか、こうしてコミュニケーション力をはぐくむことはできるはず
新歓というイベントでやるべきは一年生を勧誘することであるが、学べること、学ぶべきことは案外多いのかもしれない
初対面の人と接することが仕事となるだろう将来を考えても、好意的に接してくれる初対面の人とだけ話せる機会は貴重なもの
バイト、実習なんかに出ても必ず相手の対応がいいとは限らない
ホスピタリティの重要性を新歓を通じて解き、卓球でも大事だよと言おうとしてきたがそもそもホスピタリティって何だろう、そう思ってネットで調べてみた
そしたらこんな一節が出てきた
価格は一日、品揃えは三日で真似できるが、サービスは一生真似できない」 ということわざがある通り、サービスつまりホスピタリティは究極の差別化手法なのだ
ホスピタリィとは差別化であると。良いを知れば良いをより良いにできるし、悪いも知ることができる。
対人競技であり、戦術性に富む卓球においてもコミュニケーションにおける駆け引きはそのまま運用可能である。
私の尊敬する先輩はコミュ力が高く、戦術的でメンタルが強く、応援に入って頂ければただただ心強かった
あんな風になる為にはどうしたらいいかと日々考えたものだが、やはり同じようにはなれなかった
ただ、年数を重ねる毎に自分なりのスタイルというものにはたどり着いた。
自分ができてくれば、自分でいい。それである程度評価されているならばそれでいいと思う。
日常を適当に過ごすのではなく、何かしら考えながら物事をすると、卓球とか他のことにも大きな影響があるかも
そんな話でした
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