月1で体調不良になる傾向が続く
大方大会で声を出しすぎて、ホテルで暖房つけたまま寝て喉をいため
疲労で免疫低下したところに風邪をこじらせたんだろうか
咳止まらないし一日お休みにして、ちょっと考察


大会で団体でなぜ負けたか、これぞとばかりに仕込んだ男性陣がなぜここまで貧弱なのか毎日のように反省した

自分の教え方は決して悪くない、技術も戦術も教え込んだし、それをやっているうちは上手くできる

練習中の安定感、待ちの意識、打てる範囲等を客観的に見ても十分様々なレベルに対応できる。

だが、試合になると全くもってぼろが出る

私が知らない弱みを曝け出される

相手は明らかに私よりも弱い、私が手抜いて試合した時よりも弱い
それなのになぜ負けて帰ってきて、くだらない言い訳を並べるのか

その答えは、「原作の読み込みが足らない」からか

今回の構図は私が原作家で、選手が脚本家と例えられる。
原作は最高に面白いが、脚本による原作レイプで駄作となるラノベアニメなんかはよく聞く話だろう。
それこそ漫画の実写でもよくある話。
その多くは原作の魅力を理解できず、ストーリーをただ並べたり、テキトーにアレンジした脚本にしたてあげる脚本家が悪いわけで

私が教える際はストーリーをメインに分岐、主人公の関係者、一人一人の心情、台詞の意味等これでもかと教えるのだが、選手側が覚えるのはストーリーの一部のみ

実際に試合となるとなぜ有効か、有効でない局面かはさっぱり知らない

それでいて試合となると聞かなくてテンパって負けるなんてのもザラにある。

じゃあどうすべきかと言えば、まずは教えてる側のストーリーにつっこみを入れろと。
少なからずツッコミを入れられる位に読み込んで丸暗記して、理解をしろと。

しかして、そこまで読みこむ前に大方主人公自身のことをよく知らない

これが一番意外な展開であったりする。
如何せんその人の試合を10試合も見せられれば、私はどういう心境で卓球をしているのか、緊張した場面でどういう行動をするのか等からその人の性格から深層心理までわかる。
その人の弱いところと強いところがわかるのだ。

そうした自分の客観視、自問自答の頻度が少ない人間が主人公の原作を、その本人が読み込んだところで自分がよくわからない自分が躍動する物語に感情移入することができるわけがない。
私が書く原作は、私が見えたその人のできる範囲から逸脱しない話、私が見えているレベルを主人公も見えているならば成立する程度の内容である。

しかして、主人公の内面が予想以上に未熟であったり、私が魅せられていた姿はただの張りぼてだったなんてなると物語はたちまち破綻する。




自分を知らなければ、人のこともわからないし、自分を知らなければ自分をわかることができない。

何分自分のことを他者に延々と説明されているのに、理解できない覚えられないということはとどのつまり自分の知らない自分のことが有りすぎるということ。

自分への理解が進まず、自我形成が足りていないことが露呈してしまう、という表現は言い過ぎか。
少なからず、卓球はどのスポーツと比べても選択肢を選べる時間が一番短い。
その選択肢が有効か否かの判断も自分の中でフローチャートが出来上がっていなければ不可能である。

そのフローチャート作りも如何に自分と向き合うか、如何に自分の嫌なところと直面するかが大事なわけで、その嫌な自分との自問自答を乗り越えていかなければ弱点もわからず、何なら長所が何かもわからなくなる。

「どんなに格上相手でも自分の攻めを見せることができる」

卓球で何より大事なことはこれじゃないのか。

敢えて卓球を小難しく考えてみたが、上記のフレーズが全てとも言える。
頭の悪く、自我形成が出来ていないジュニア世代でも強い選手が非常に多いのは、常に攻めを見せる姿勢があるからに他ならない。
攻めを見せるということは、攻める自分を知っているという意味で既に自分を知り尽くしていると言える。そういう意味では卓球以外は知らないが、卓球に関しての自我が出来上がっているといい。
といってもただ攻めればいいというわけではない。
攻めれるところでしっかりせめて、攻めれないところで我慢する。
それも相手に応じてそのバランスを考えて、無理をしたり、無理をしなかったりする。
こうした姿勢は強くなる過程で直面する「弱い自分」を多く見た結果として身に付けていくものであり、「勝つ」ための手順を自己を抑えることで習得していくものだろう。

スポーツは人間形成の場だなんてよく言うが、それは根性論なだけではなく、強くなるための自問自答の場が多いからだろう、と当たり前のことを言ってみる。

しかして、自問自答のやり方を考察してシェアする、というのもなかなか難儀な気がする。
少なからずフローチャート式に戦術を考える方法とかは大分前からやらせていたし、それをしたところで試合には全く役に立っていなかった。

結局はその人の性格の根っこがしっかりしたものでなければ、試合で強気でミスの少ない戦術を選ぶことは難しい。

「勝つ」という行為そのものは非常に難しい。

人より上に立とうと思ったら、人より上にたてるだけの理由が無ければならない。

勝負に勝つというならば、勝てる筋書きをその場で考えたり、負けない筋書きを予め仕上げていかねばならない。

果たして負けた人間は負けた時どう思うのが理想なのだろうか。

ただ自分を責めて終わりでいいのだろうか。
その負けの内容を振り返ることができているのだろうか。
学ぶべき対応と、その後に対応されて負けるシチュエーションの想定と、それに対する対応…と延々と考え続けることはできているのだろうか。

負けるには負けるだけの理由がある。
その本質を理解できていないうちは、いつまでも敗者の運命が待ち受けるであろう。

私も何度も負けて、何度も考えていく内に負ける相手のレベルが高くなっていった 。
負ける度に自問自答を繰り返したからである。
このレベルがいきなり落ちたりなんてことはまず無い。



しかして、理想は自分の原作と脚本は自分であるべきで、監督・コーチは演出家であるべきか。

こう表現すると、自分を一番理解していて、自分が一番正しいに決まってると思う人は演出家はいらないと言うかもしれない。

そんな人には問いたい。
自分へのアドバイスを否定する際、消極的理由以外の明確な理由を常に述べることはできるだろうか。

自分にとってネガティブな理由が挙がってしまうことこそ、自分が見つめなおすべき成長できる部分だろう。

そこで背景とか、もっともらしい理由に依存してはならない。

蓋をしたら最後、その物語に続きは生まれないのだから。